• センスメーキングと変革:対話と組織変革① 組織開発(OD)の実践って、どうするの?-300~

センスメーキングと変革:対話と組織変革① 組織開発(OD)の実践って、どうするの?-300~

ODメディアも300回に突入しました。今回からODの実践には欠かせない対話と変革について考察していきます。

対話(dialogue)は会話(conversation)から始まることが多いと思いますが、効果的な対話になっていくには、解決しなければならない事柄について当事者がお互いの「認知の枠組み」を表明し合い、その中にあるズレや対立点を共有し新しい世界を作り上げていく、人と人との関わりに発展していくことが求められます。要するに対話は、ある事柄に関係している当事者同士の認知のズレを修正し協働関係をつくっていく有効な手段です。ズレを修正するとは、他者との違いを認めると同時に、自分自身の見方や考え方の偏りに気づき、それを修正ないしはいったん脇に置きし、共有できる未来をどのように構築していくかという事が含まれます。自分自身の見方や考え方の偏りに気づくというのは、中々に至難な業であり、どうしても「我」を捨てられないものです。もちろん討議など、自分の主張を通していくというやり取りもあるのですが、対話はそうではありません。お互いが共有できる世界を創造していく作業です。そのような対話では、常に「自分との対話」が欠かせません。つまり、相手と話しながら自分とも話すという内省作業が欠かせないのです。発達心理学者として名高いジャン・ピアジェ(スイスの心理学者)は、大人の成長は自己解釈の枠組み(スキーマ)が柔軟性を持ち広がることだと言っています。自己解釈の枠組み(スキーマ)は、体験や知識が体制化されたものです。ピアジェによれば、私たちが大人として成長していくということは、物事の受け止め方に偏りがなく、多面的に広く認知できる力を身に着けていくということになります。それには、同化と調整を常に行いながら、全体としてのバランスを取ることで発達していくプロセスがうまく機能していることが必要です。この考え方が成人発達理論の基礎となるものです。このプロセスは大きく3つから成り立ちます。

  1. 同化
    • 同化とは、自分の外にあるもの(対象)を自分の中に取り込む働きの事です。その際対象を取り込みやすいように変化させます。同化は、スキーマというフィルターを通ってなされ、自分に都合が良いように取り込むことが多い。
  2. 調整
    • 対象が自分のスキーマに合わないときはスキーマの方を変える必要があり、これを調整といいます。容易くできる人とそうでない人が居ます。
  3. 均衡性
    • 人は、同化と調整を常に行いながら、全体としてのバランスを取ることで発達していきます。このプロセスを均衡性といいます。これが大人の成長です。

 

同化と調整がうまくいかない場合、つまり均衡化がなされないとき、私たちは「頑なになる、柔軟性をなくす、混乱する」などして外にうまく適応できません。昔からよく「話せばわかる」といいますが、実践するのはなかなかに難しいものです。なぜかと言えば、それは対峙する当事者同士が「対話は大事」と本当に思っていないと、それが分かっていない相手からは無視されるか攻撃されるからです。そして、対話が重要と言っていた人もそれ以外の方法を選択し「反撃」に移るのです。例えば、無視した相手の話を聴かないとか、対等な立場にあるなら「言い返す」とかという行動を取ってしまいます。私自身もそのような行動を取ってしまうこともあり、困ったものです。

ところで会社組織では、組織内のパワー(権力)の所在に敏感な政治的活動派と、信頼関係が組織活動のカギだと考えている対話的活動派は、そもそもの立ち位置が異なるので関係者の中に葛藤を引き起こします。そして下手すりゃ「さようなら」ですね。これはW.ビヨンが提唱する理論に照らし合わせてみるとよく分かります。ビヨン理論とは「リーダーに反発しまとまらないグループは、リーダーもその渦の中にとりこまれ、依存-反依存、分派、闘争-逃避を繰り返し、非生産的なループから抜け出せない」という集団の無意識的領域に着目した理論です。集団が混とんとしている際に良く起こる出来事です。それでは、対話派はこのような局面でどうすればよいのでしょうか、それは「我慢」です。爆発しそうな自分の内面と戦い、粘り強く相手と対峙するのです。そして、論理と感情の両方から相手を「対話の場」に引き込んでいく努力をし続けるのです。

 

アメリカ映画の秀作である「12人の怒れる男(米国、1957年)」でヘンリー・ホンダが演じたような「冷静で、思慮深く、粘り強く、納得できないことに疑問を持ち続ける」陪審員の姿勢が必要なのです。この映画の見どころは、12人のやり取り(対話)の中で彼らのものの見方や考え方が変わっていくストーリーです。陪審員のある人は野球を見に行きたいから多数の意見にフリーライドしてすぐ終わらせようとする。またある人は被疑者の少年がスラム街出身者であるという理由だけで、彼が絶対に殺っていると主張する。でも、陪審員の中にいたスラム街出身者が「喧嘩の時のナイフの握り方」の違いを説明する。そうやって一つひとつの事象に対して、それぞれが思い込みやいい加減な見方を排除して真剣に事実を追求しようとするのです。最後まで抵抗し被疑者が殺ったに違いないと主張していたリー・J・コップ演じる会社経営者は、実は家を出ていった息子との確執から、息子と同じような年ごろの被疑者に対して頑なに犯人であると固執していたのです。彼は、最後は自分の内面と向き合い「無罪」と宣言するのです。

真実と向き合うという事は、単に客観的な事実を探るということに留まらず、自分自身の偏見や信念体系を直視し、それを問い直す作業でもあるのです。その意味で、対話とは自分とのバトルなのです。対話とは他者と対話しているようで、実は自分自身とも対話しているのです。組織や集団の問題解決において対話を実施する価値は十二分にあるのです。

 

この記事の書き手はJoyBizコンサルティング(株)波多江嘉之です。