モメンタムをマネジメントする。 ~ソモサン第311回~

 医者と云えば、私的に未だに持っている疑問があります。それは朝青龍がまだ横綱だった時の逸話です。彼のわがままはそこそこ知られた話でありますが、その朝青龍がある時怪我を理由に休場した時がありました。問題となったのはその時彼がサッカーで試合をしていたという報道から全国的に「悪童」のレッテルが張り付けれたことにあります。以後彼は何をやってもネガティブに報道され、遂には引退に追い込まれてしまいます。それを見ていたのか、後輩の白鵬は現役時代は出来る限りおとなしく行動していました。それが最近部屋の失態をあげつらわれて親方として同様の状態に陥らされているようです。でも誰もこれを旧体質による内輪的ないじめと云うようには報じられません。大衆は本当にマスコミの言いなりの感が拭えません。
 話を戻しましょう。朝青龍のサッカーの話です。私的にはこの休場の在り方に最近耳目を集めるようになった「新型うつ」を感じさせるところがあるのです。「新型」うつとは新入社員などに顕著ですが、「仕事や会社に対しては精神的な障害が生じ、気力やモメンタムが劣化して動けなくなったり考えられなくなるが、遊びなどでは至って元気になり、それがサボタージュにみられる」といった症状です。最近では適応障害の一つとして見られる場合もあります。要は身体ではなく心の病の一つであるということです。しかし朝青龍の場合マスコミの誰一人としてこの心の病に触れた報道はしませんでした。ただただ「不真面目のさぼり」騒ぎ立てたわけです。私的に実際は分かりませんが、とても偏りを感じたのは確かです。
 こういった報道を見る限り、日本の心の病に対する認知の在り方は未だ非常に劣ったものであり、相撲のような古い業界においては、こういった劣った知見やアンコンシャスバイアスによって起きているアクシデントが時勢と共に噴出の度を高めるばかりとなり、それによって衰退の度も高まっていくのではないかと思っているわけです。これは他山の石として、報道や教育と云った機関でもこういった無知蒙昧さが社会的な弊害になってきているといった憂慮も抱いている所です。本当にメンタルに対する認知をもっと真剣に見つける必要性を感じる昨今です。
 さて、一般には日本社会で「頭の良い人たち」だと思われており、実際にそういう側面もある医者のようなエリート方ですが、本来スマートな彼らのはずなのに、実際に接しますとこの「結論、根拠、結論、根拠」の話し方を“苦手”とする人がわりと多いような感じを持っている時があります。その顕著な形が、結論は出すんだけど、根拠が出せないという状態です。「症状は○○だと思います」「なぜ、○○だと思うの?」「それは……こういう症状があるから」「その症状があれば、それは○○なんですか?」「いえ……そういうわけでは……」「それだけでは、他の疾患ではなく、○○であるという根拠としては弱いのでは?」「そうですね」
 これは、目の前に起きている現象がAである、と主張する場合、それは同時にBでもCでもDでもEでもないことを意味しています。でもAにコンパチブルである(相容れる)ということと、それが他ならぬAであるということは同じ意味ではありません。よって、現象がAであるという主張の根拠には、他の可能性、BやCやDやその他の可能性ではないという根拠も込められていなければいけないわけです。こういった思考が出来ない人が増えてきているのです。例えば心療内科の場合、精神科に属する症状や所見に無知でも安易に結論を出して問題解決を歪める場合があったりします。私もそういった事例を見たことがあります。でも患者は医者を妄信しますのでそれに疑いもせずに盲従してしまいます。困った話です。先だって名古屋の病院でインターンがそれによって若い身である高校生を誤診で死なせてしまうといった悲劇がありました。こうなると困ったでは済まされません。
 どうしてこうなってしまうのでしょうか。私的には今の学校教育で教える論理の組み立て方の学習内容に大きな偏りがあるように見ています。結論から根拠の流れを、演繹的に一つの正解に向けて直線的に導き出すモデルを多く暗記するという方式にはめ込み、多様な解がある、解には他にも可能性があるといったコンパチブルを考えさせない思考パターンを醸成しているように捉えています。だからエリートほど自分の解に固執し、多様な見方が出来なくなっているとみている次第です。
 そしてこの典型が人のメンタルにおける輻輳した情報要因によるメンタル的な問題に他なりません。愛憎相まみえるような心理状態、感情の動きなど経験的な知見のない者が机上の空論で判断できるものではありません。そしてモメンタムなどはその典型的な世界の一つです。
 最近私的に思うのは、日本社会で「頭の良い人たち」といわれる方々、医者や弁護士などのエリートの方々は、ロジックに拘ってメンタルプロセスに目がいかないというよりも、ロジックプロセスがまともでないから、輻輳的な世界であるメンタルプロセスが理解できないのではないか、ということです。戦前や昭和の時代には「デカンショ」といって、受験的な論理的教育もしながらも、哲学書を読み漁り、文芸書を読み漁り、時には旅をしたりして知見を高めて多様な思考パターンを身に付けたり、多様な人との触れ合いによって人の感情というものを体験的に学習してきました(そういったゆとりもありました)。今の日本の教育の在り方にはゆとりがありません(とうよりもゆとりの何たるかが分からくなってきています)。そのために深い意味でのロジックプロセスやメンタルプロセスを学んでいません。そして時にはその実態を自己防衛的に「自己正当化(聞く耳を持たない)」といった姿勢で社会的な健全性を悪化させることに拍車を掛けているようにも思えます。
 欧米では高校時代にボランティアをさせて、それが成績評価の一つになっており、ハーバードでもスタンフォードでも入学の条件になっているそうです。
 はてさてメンタルプロセスも腹落ちさせていない人が未熟なロジックプロセスを展開する状況でのメンテナンスやタスクは一体どのように為されていくことになるのでしょうか。
 モメンタムとは「勢い」とか「活気」といった「(感情的な)エネルギー」のことです。先だってアメリカ大統領選の討論会があり、今やアメリカを挙げての大問題と化しています。その理由は現大統領のバイデン氏が老齢による認知力などの低下で次期大統領として耐えられそうにないという危機感が噴出してきたからです。それにおいて朝のニュースで司会者が「彼には勢いと云うかパワーが感じられない」と評していました。これこそモメンタムの何たるかが示されています。モメンタムこそロジックプロセスでは説明しがたい世界です。でも世の中はこういったエネルギーで動いているのです。
 皆さんも改めてプロセスと云う世界を見つめ、ご自身を内観し、点検して頂けます
と幸いに思います。
では次回も何卒よろしくお願い申し上げます。

さて皆さんは「ソモサン」?