• モメンタムをマネジメントする。まずは塊より始めよの意味を考える ~ソモサン第305回~

モメンタムをマネジメントする。まずは塊より始めよの意味を考える ~ソモサン第305回~

「器」という言葉があります。器は生来の特質に加え、殆どが幼少期の学び、教えや経験から生み出されます。人はその持っている器次第で発想や目標観が紡ぎ出されます。

前回もお話ししましたが、目標そのものに良し悪しはありませんし、そこに優劣もありません。しかし人には動物由来の弱肉強食的なDNAがあって、それがどうしても自我地位の欲求を刺激し、意識に線引きや引いては優劣といった価値観を生み出します。この観念は知性と云うよりもより感情的な領域で、対人的な鍛錬が為されていない人間的に未成熟な人ほど強く現出してきます。また教えによる差別的なアンコンシャスバイアスの影響もあります。何れにしてもこういったコンプレックスに起因する(もはや無自覚レベルにまで埋没している人もいます)品格の低い想念が露出する人ほどそれは生きる意味や目標想起の在り方に影響をします。

例えば子育てとか、子供から大切にされる存在になるというのも本来ならば大きな目標です。社会貢献とか御大層なことを云いながら、人から疎まれて孤立している人よりもよほど意味があります。人から孤立して社会貢献も何もありません。世の中には最終的には家族から逃げられてようやく目標の本質に気付いたといった愚か者が一杯云います。こういった人は意味や目標の大前提が分かっていません。でも何故そうなるのでしょうか。この主因が幼少期の学びと云うか擦り込みになります。特に田舎のような空気が流れないところに多くみられますが、家内という呼び名の様に女性は家の中で、外で稼ぐのが男と云った、あたかも狩猟時代に作られた価値に縛られた人の場合、男尊女卑がアンコンシャスバイアスとなって、子育てが庇護の下に為される何処か劣位的な意義の様に捉える面を見かけます。外でバリバリこそが重要な目標、社会貢献的な意味や目標と錯覚するわけです。またはオンリーワンが意義的として、誰しもが為せる意味や目的を卑屈にみる人もいます。オンリーワンな人物を育成し世に出すのも素晴らしい目標なのですが、これらの意思は環境による負の側面と云えます。他との比較は社会的な存在にとっては両面価値です。無意識に擦り込まれた環境認識とそこからの自己認識はそうそう自助努力で変えられるものではありません。気づき自体が難しいと云えます。それを打開するにはコーチングが必要です。それこそがマネジメントの本義です。

特に世の中には社会共有としての価値観があります。それは「公序良俗」という観念です。これは社会的維持や成長のための鉄則です。その為に外せないのが利他的生き方です。利他的とは「人のお役に立つではなく、人に繋がる、人の手助けとなる意義を意味と目的にする、永続性を持った思いであり生き方」のことです。最近こういった基礎の思いをきちんと教えられている人が非常に少なくなってきています。それが欠けていると判断できる行動に「ありがとう」とか「ごめんなさい」という感情を表出して他者と交じり合おうとする言葉が浮かぶか口に出来るか、ということがあります。人から何かアプローチされたらまずは「ありがとう」です。こういった人としての基本が出来ていない人は他者に警戒や不安しか描けず、まずは人を敵対的にしか見られません。そういう人の対人は極めて浅い関係になります。当然そこにはモメンタムのようなポジティブなエネルギーは宿りません。今の社会風潮はこういった人が増殖して、相互にけん制し合うことが普通になっている殺伐とした状況になっています。だからこそマネジメントが問われる時代なのだと云えます。

また禅の中に「少欲足るを知る」という言葉があります。大志を描くのは悪くはないが、それは器に従うというのは前述の通りです。強欲は自分を苦しめる。かと言って無欲では動きが出ない。自分にとってのほどほどを知ることが幸せに繋がるというのが趣旨ですが、躾や礼儀と云った道徳観の教育が脆弱なった影響で、対人間が殺伐とし、他者からの親切が攻撃にしか捉えられないような幼い意識が蔓延する中で、無意識に利己が心を支配して強欲が我が物顔の状態になっています。今学校教育の必須科目で英語と共に道徳が復活してきていますが、これがどのように未来に影響するか楽しみにするところです。

ともあれ、目標とはやりたい欲とやれる力とやりたい価値によって営まれます。器とはそれらを総じた名称です。価値とは生きる方向づけであり、興味や関心の元。自分は何が好きで何が楽しいかを規定する想念で、共感の元であり、我慢の元です。熟成した価値を育んだ人を大人といいます。儒教では「不惑」といって凡そ40歳で完成するとしています。価値は人との関係の中での葛藤経験や内観的成長(認知、受容、反応)によって発揮され、人はその受容の力に応じて人を集めます。自分の前にどれだけ深い関係の人が集まってるか。それが価値であり、意味や目標の元になります。人を損得勘定や利害でしか見れない人にはそれなりの人しか寄り付きはしないでしょう。エネルギーの吸い合いは疲弊を招くだけです。そしてその現実は目標の在り方に大きく影響します。

何を価値に描き、何を喜びにするかの多くは体験と教えによって決まってきます。これは何を経験してきたか、そして何を教えとして学んだかを振り返ることによってある程度ニュートラル化することができます。価値の在り方を変えることも喜びの軸足を変えることも、それは自分の想念の世界ですから可能な話です。繰り返しますが意味や目標自体に優劣はないし、良し悪しもありません。大事なのは達成感による喜びを積み上げることによって人は自身も持つし、自由になっていくということです。そこにモメンタムのエネルギーは宿ります。

今の時代で燃焼モメンタムを活性させるには、何よりも可燃物である「薪」を良質にしなければなりません。個人に生き方に関してはいざ知らず、組織集団にとっては一人一人の薪の質とその組み合わせが集団としてのモメンタムのスタートラインになってきます。それを準備するにはマネジメントの質的向上が必須になってきます。

そしてマネジメントの質的向上は前回もご紹介させて頂いた「まずは塊より始めよ」です。それにはまずは「自分を知る」ことが着火点となります。そして自らが分相応、身の丈にあった意味や目標を描くのが大事になってきます。人として最も崇高なのは我の問題として受容できる人であることです。神輿に乗る人を担ぐ、その草鞋を紡ぐ。社会はそれぞれの立ち位置に重要な役割と使命があります。そして役割を知ったら他の役割に人に感謝する。上こそそれが必須です。そうしてお互いを尊敬することに範を示すことです。その心があれば人が自分に敵意を持っているのか思いやりを持っているのかは一目瞭然です。利他が持てない人には人が見えません。そういった人は実は自分しか見ていないのが現実です。そう育てられたのかもしれませんが、そういった人は行動にすべてが出ます。そう人は理屈で云っていることよりもやっていることで分かります。そんな人に下は付いてくるでしょうか。感謝の心を持たない人に人は信頼を持つでしょうか。人のために真剣に怒れる人は幸いです、そしてそういった利他心をもって一生懸命に生きれる人に人は集まります。「実る穂ほど首を垂れる」とは良くいったモノです。

最後に最近はやりのフレーズをご紹介いたしましょう。これまでも「報連相」という言葉はありました。これはマネジメントとしてのその返しにおける言葉です。「おひたし」、「怒らない、否定しない、助ける、指示する」という四語です。きちんとポジティブに向き合えと云うことですね。他にも「こまつな」と「ちんげんさい」と云うのがありますが、これはまた次の機会にでも。

ともあれ皆さん「言葉に反応する莫迦」にだけはならないようにお気を付けください。最近私も何か疲れてきて、「どうせ言っても無駄だしな」という闇に飲み込まれそうになります。皆さんも時々はポジティブチャージをして下さいね。

それでは次回もよろしくお願い申し上げます。

 

さて皆さんは「ソモサン」?