• モメンタムをマネジメントする。意味が持つ欲求の力を知る ~ソモサン第304回 ~

モメンタムをマネジメントする。意味が持つ欲求の力を知る ~ソモサン第304回 ~

最新の脳科学の研究によって、欲求行動を司る脳内伝達物質として知られるドーパミンが、生理欲求への充足、いわゆる「食欲、性欲、排泄欲、睡眠欲」といった生理欲求への充足として中脳から放出されるのみならず、人間には「問題解決欲」と表するべく知的な欲求として大脳新皮質からも放出されているということが分かってきました。平たく言いますと「空腹な時に餌を見つけると喜びを感じる」といった類が「生きるため必要な行為」として求められるわけですが、ウィーン大学医学物理学教室のクリスチャン・ウィンデシュベルガー准教授は、実験によって本来はその媒介として定義されていたドーパミンが、別の状況、例えば何らかの問題解決を得た場合、それを誇らしいと云うような喜びとしても分泌されるということを発見し、更にウィスコンシン大学発達・進化神経科学のアンドレ・ソウサ助教は、それが中脳からだけではなく、大脳新皮質からも分泌されているということを見つけ出したのです。

大脳新皮質は「課題解決」のような知的活動を司る働きをしていますが、この実験データによる論説を重ね合わせると、人は知的活動にも「欲望」を抱いているということであり、そこにも「喜びと云う報酬の繰り返しを求める」本能があるということになります。

ところで皆さんは、意欲と云う言葉をご存じのことと思います。では意欲とは一体どのような欲求なのでしょうか。それをきちんと定義づけて認知している方は非常に少ないように思います。実は意欲とは「意味への欲求」のことです。ではその意味とは一体何でしょう。意味とは「価値」のことです。より解像度を上げるならば「存在価値」のことです。よく「それって意味があるの」といったもの言いを耳にしますが、詰まるところそれは「それって価値のあることなの、人や社会から見て承認されることなの」といっているわけです。社会的に承認される存在価値のことを「意義」と云いますが、意味とはその意義に繋がる考えや行為を示す言葉です。

そして何故人が「意義や意味」を求めるかと云うと、その本質が「人は群れることにおいてお互いの生命を維持させる」という意思選択をしたことに起因を持ちます。人は「共通の意義や意味を共有する」という行為に基づいて、より多くの人達やより遠い人達と交流をし、社会を拡げて集団の結束性を高め、成長と発展を実現してきました。つまり意義や意味は生理欲求と同じくらいに人と云う存在にとっては重要な本能ということです。これは社会的に存在するための本能なわけです。だからこそ人は意義や意味を求めたがりますし、意味を知りたい、意味を感じたいと反応するわけです。

そしてその意味を起点として意味を実現し、それを承認してもらうべく意味に対して目的や目標を描きます。これが「人は目的的存在である」と云われる所以です。このことは「目標」が描けない人のボトルネックが何処にあるかを浮き彫りします。目標が持てない、描けない人は、まずもって自分が社会的にどういった存在であるかということ、立ち位置が見えていないということにあります。つまり自分が果たすべき意味や自分が果たしえる意味が見いだせていないということです。

何故そうなるのかは様々ですが、その代表は強すぎる承認欲求です。「認められたい」という欲求が強い場合、他者からの影響力(多くの場合幻想ですが)によってしっかりとした自分の立場に自信が持てません。例えば幼少期からの親の期待過多や本人が描く人生観(要は好きなこと)とにズレがあってそれが原因となっている場合です。これは親のみならず、社会的な無責任的要請によってもたらされる場合もあります。無責任的要請とは、学歴とか権威主義といった社会的な評価による圧力です。これは社会的に意味があるとか意味がないといった按配で、実際は誰もそれに責任意識はありません。そういった幻想によって集団圧力をかけることから「自分に意味がある」と感じる世界に制限を掛けたり諦めを持ってしまうことが多々あります。ただここでの問題は、実際にそういった圧力は否定できないものの、それ以上に他人の目を意識しすぎるといった面が強いといったところです。要は気にしすぎです。だれも責任を担ってくれないならば、もっと自由であるべきなのに、自己呪縛に掛かってしまっているわけです。

意味や目標に関しては十人十色です。何を目標にするかはその人の認知次第です。何を価値観にするかも何に異議を感じるかも千差万別ですし、そこに良し悪しはありません。キリスト教では、神が与えた平等は3つしかないと教えます。

①誰しも生まれる場所を選べない

 ➁誰しも死は訪れる

 ③誰しも神の前では平等である

つまり誰しも生まれる場所や条件は選べないわけですから、その与件の中で意味も目標も描いていくしかないし、それを基軸に描くのがしっかりとした立ち位置の確保になるということです。その人の認知も思考もその人が置かれた与件、環境に影響されます。ですから他所を気にしても詮無いことに過ぎないわけです。人と交わる時にそれぞれの背景を配慮して交流するのは基本中の基本です。そういった感受性がない輩(大体が経験不足か苦労不足)が狭い価値判断ですぐに他者に敵対視するのは情けない話です。まさに「ノブレスオブリージェ」「寛容さ」ですが、何故そうなるのかというとこれも周りの躾の問題になります。環境設定です。

高校生の頃、親友と論争になりました。「未来に余地はあるか」という内容でしたが、私は高度成長の中であらゆるものが物質的に満たされる中で、次世代に開発の余地は制限されるのではないか、と主張しました。一方親友は「いやいや開発の深さは無限大だから、これからも余地はある」でした。わが親友はその頃から無類の自動車好きで、自動車開発に夢を持っていました。結果自動車会社に進み、F1の世界に身を投じて定年まで開発三昧でした。私と云えば、親が国の官僚と云うことで、目標ポイントを高く持ちすぎ、その重さに折れてしまいました。そこには目標を追いかけれる環境にあったか否かといった想定外の条件(私の場合は相次ぐ転校で集中が出来なかった)もありました。最終的には身の丈に合った目標を描き直し、やっとこその目標達成の手前にたどり着いたところです。途中で見直そうかと思いましたが、別の友人が志半ばで田舎で農業を継ぐことになり(親が脳溢血で倒れた)、彼から「夢を託す」と云われたのが最終的には足枷になったこともあります。こういった応援は両面価値になります。親の期待もそうだと私的には見ています。「こうあるべき」は頑張りにもなりますが、重石にもなるわけです。そうそれにも良し悪しはありません。

ではモメンタム的に纏めましょう。信念やビジョンがあれば、それは可燃しやすいから、火は燃えやすくなる。燃焼モメンタムが発火しやすくなるというのが云いたいことですが、その信念やビジョンの入り口が目標意識や意味の捉え方であると云うこと、そしてその意味や目標に上下も善し悪しもないというのが大事なポイントです。

ともあれ燃焼モメンタムにとって本当に必要なのは目先のちいさな願望や目的の存在ということです。そしてなによりも意味や目標をイメージしやすくして、かつそれを欲しやすい状態に導くのが報酬という刺激の持ち方です。例えば子育てなどは子供の育成過程と云った解像度の高いイメージが持てるので、刺激要因としては絶大です。そしてそれは自分しかできないオンリーワンの意味ある目標になります。多様性の時代と呼ばれていますが、結局は周りの雑音に惑わされない自分ならではの手近な意味と目標を設定するのが、自由やウェルビーングにとっても、また燃焼モメンタムを発火させやすい状態を作る上でもとても大事な条件になってきます。

モメンタムマネジメントの重要な役割の一つは、このような目標設定に向けてのコーチングをすることであり、時にはズバッと介入もすることです。でもこれは人に対して一歩踏み込む経験を積んでいない人にはできません。それを開発するのは踏み込みあえる仲間を持つことから始まります。

まずは「塊より始めよ」です。マネジメントは孤独の中では生み出せませんよ。マネジメントの入り口は何よりも背中を見せることです。仲間あってのマネジャーです。皆さんは如何でしょうか。

では次回も何卒よろしくお願い申し上げます。

 

さて皆さんは「ソモサン」?