モメンタムをマネジメントする、燃焼編⑪ ~ソモサン第296回~
ずいぶん前のソモサンで取り上げたのですが「愛着障害」という心の歪みがあります。具体的にはネグレクトに顕著なのですが、人が幼少期に応分の愛情を注がれなかったと認知された場合(重要なのは実際に注がれたか否かではなくどう本人が認知したかです)に生み出される様々な思考や情緒、コミュニケーション上の障害を総称してそう呼称しています。
心理学における愛着とはアタッチメント(attachment)と云いますが、他人や動物などに対して築く特別の情緒的な結びつき、とくに幼児期までの子どもと育児する側との間に形成される母子関係を中心とした情緒的な結びつきのことを指します。
人はこの生来持つ愛着性に従って「アタッチメント行動」を取ります。アタッチメント行動とは、幼少期に醸成された「特定な人が自分を守ってくれる」ということに対する安心感を求める行動です。例えば「触れ合いたい」「くっつきたい」という欲求などがその代表ですが、実際にそういった状態に人は安心感を抱きます。最近ハラスメントといったことが過剰なぐらいにクローズアップされていますが、人は本来は触れ合いに安心感を抱く生理を持っているわけです。
こうした人が本性として抱く「安心したい」という欲求は、単に「くっつきたい」という行動だけではなく、もっと大事な行動を生み出します。それは「人は安心感がある時に、初めて外界への探索行動を始める」ということです。そして人はその外界の範囲を徐々に拡げて社会に巣立っていくことになります。言い換えると幼少期に愛着障害(これは予備軍の状態でも同様です)を抱くと外界に対してネガティブ基調になり、酷い場合は「引きこもり」に陥ったり、対人においての距離がイメージし難くなって上手く対人関係が築けなくなるといった行動、或いは対人に関して感情的な意図が持てずに人間音痴になるといった行動に現れてきます。
この愛着障害的な反応を生み出すにおいて、先に認知と表現しましたが、その意味は関与者側(親がその代表)に意図がなくても、その行動から受け止め側がそう感じたり認知したりといった場合にも反応が発現するということです。いやむしろそういった場合の方が多いかも知れません。意図のない行動の代表が「放置」です。「欲しい時にその対象がいない状態」、それが放置です。昨今共稼ぎが当たり前の社会になりましたが、母親が「甘えたいときにいない」という状態は一種の放置と同じになります。昔はその代償として祖母などがその役割を引き受けていましたが、現代の核家族の状態ではそういった代償的な存在もなかなかいません。
またこのアタッチメント行動は外界へのデビューに伴って徐々に対象が拡がっていきます。その第一歩になるのが学校における友人という対象でのアタッチメント行動です。せっかく親を中心とする家族の中でアタッチメントが満たされて安定的な心理を形成したとしても、これは大人の庇護という籠の中での心理で、それは未だ非常に脆弱な状態です。その心理状態が堅牢になっていくのは無償ではない関係の中での摩擦によって形成されていきます。そうして心を育みながら外界の輪を拡げていくのが人の成長です。
しかしこれが過度のいじめやいじりと云った揺さぶりによって傷つけられると、二次的な愛着障害になってしまうことがあります。引きこもりや登校拒否といった行動が顕著ですが、本当に怖いのは「対人に対してのネガティブな見方の醸成」です。酷い場合には「人を恨みや嫉みの対象でしか判断できなくなる」といった心の歪みですが、時にはこの心理が暴走して「シリアルキラー」のようなサイコパス的な心理を発露させる場合もあります。まあ多くの場合、「疑り深い行動」とか「人を気にし過ぎる行動」などに現れます。私的には最近のネットにおける誹謗中傷行動の真相にはこのような「アタッチメント行動」に対する傷がもたらす「愛着障害」の存在を感じています。
つい最近の話ですが「学校へ行くべきか否か」という問いに対して「学校の対人関係が嫌いならば行く必要はない。今日ではネットなどで幾らでも対人関係は作れるから、わざわざ嫌なところに行く必要はない」といった識者がいました。私的には「ある程度趣旨は分かるがちょっと足りていない」と云う気がしました。その理由は「アタッチメント行動」とは「触れ合い」の中にあり、これは空間的時間的に共有された肉体的な五感関係に生み出される世界であり、ネットのようなある種論理優先の関係では満たされない生理だと云うことだからです。実際この触れ合いは昨今のコロナ禍による触れ合い不足や対人関係の希薄化で生じてきた若者の精神的な健康障害に現れてきています。先の「登校拒否」などはそれによる「触れ合い不足の加速化」といった負のスパイラルを生み出して、ますます「引きこもり的な行動」に拍車を掛け、それが新たなる中高年問題を引き起こす原因にも繋がっているといったあり様になっています。人は直接的な触れ合いの場を狭めるべきではありません。
アタッチメントの専門家はこの研究の中からその行動特性をまとめて「アタッチメント・スタイル」といった形で発表しています。
①安定型:開放的な行動を取ります。信頼を心地良く感じる性向を持ちます。
➁回避型:人前から隠れたがります。人に対して自分を隠す、人と距離を置く性向を持ちます。自分に囚われ過ぎます。
③不安型:物事を考え過ぎるところがあります。物事をネガティヴに考える性向を持ちます。対人に敏感で人を気にしがちです。
皆さんは如何でしょうか。ここのところ、人とラポール(信頼関係)を作るうえで重要な「人を見て法を説く」という観点からソモサンを進めていますが、このアタッチメントスタイルなどは「相手の胸襟を開く上で最も深いレベル」での人を見分けて関わっていく技術とも云えます。自分自身のものの見方や考え方、そして振る舞いを見直すきっかけとしてもアタッチメント理論は大事な要素です。
さて数回前になりましたが、人の行動を見て心理を掴む技術として自責タイプと他責タイプという見方に軽く触れさせて頂きました。今回はその続きを次回に跨いでお話ししましょう。前の回の時にも「自責と他責」という文言に囚われて、自責が良いとか他責が良くないといった二値的な見方は語弊を伴うとお話ししました。自責と他責とは、何かがあったときにその責任を何でも(時には必要以上に)自分自身に向けがちか、それともまあ物事の原因は色々と他にもあるのが複合していると見る向きであるか、と意味合いで、「インターナル/エクスターナル」という技術になります。これは価値観的に、もの見方が「悲観的か楽観的か」ということに繋がってくるクライテリアになります。繰り返しますが、この見方は決して物事の原因が自分の性とか他人の性と云った決めつけのためのクライテリアではありません。
それでは次回もよろしくお願い申し上げます。
さて皆さんは「ソモサン」?