• 西洋のグリットと日本の禅の考え方を融合させてみる ~ソモサン第265回~

西洋のグリットと日本の禅の考え方を融合させてみる ~ソモサン第265回~

皆さんおはようございます。

ちょい英語を苦手とする私は(それによって受験を始め、人生のステージで結構損をしているのですが)、諸外国の理論や学説を吸収する際にどうしても翻訳本に頼る面があります。それは開発スピードを遅らせるだけでなく、好機を逸する原因になってもいるのですが、幼少期のトラウマもあってどうも超えられない壁になっています。翻訳本の活用においてどうしても弊害になってくる大きな要素は、誤訳や知見のない人による意訳による真意のズレが挙げられます。

これを避けるために文章的には出来る限り原著による確認を心掛けているのですが、正直間に合っていません。情けない限りです。そういった訳のズレによって、解釈にもズレが起き、それが普及の妨げに繋がっているのではないか、と察せられる場面にも時には出会うことがあります。最近ではグリットという概念においてもその様な違和感を感じました。

先週もご紹介させていただきましたが、グリットとはアメリカの心理学者であるペンシルバニア大のダックワース教授が提唱した概念で、日本では「やり抜く力」と訳されています。そこでの論説は「人のパフォーマンスは才能ではなく、やり抜こうとする意志力で決まる」といった内容が主旨になっています。良いことを云っていると思うのですが、アメリカでは大ヒットしたのに日本では紹介後もう5年以上にはなるのにパッとしません。一部の有識人には受けているようですから内容にはインパクトがあると思うのですが、一体何故アメリカのように拡販されていかないのでしょうか。

私的には、最初のメッセージである「才能ではなく」というフレーズに解釈のズレが起きているからではないかと見ています。見方を変えますと「やり抜こうとする力」も「才能」ではないのかということです。

もう50年も前になりますが、私が最初に行動科学に触れた時に学んだ概念にハーバード大のK.アージリス元教授による「能力概念」といものがありました。これは能力には大きく2分類があり、その一つ一つにも更に3つの分類があるというものでした。英語でいうと、まずアビリティという個々が保有する「才能」とコンピテンスという他者との関係で発揮される「適応力」に大別されるというものでした。さて大事なポイントはここからです。アージリスによるといわゆる才能というアビリティの領域には3つの能力があって、それは知的なもの、情的なもの、そして動的なものに分類されるというのです。つまり才能には3種類あるということです。この概念をフィルターにすると、「やり抜く力」は明らかに「情的な能力(才能)」ということになります。アージリスの学説で見ると「やり抜く力」も才能の一つになります。

でもここで早計に「ダックワース氏は間違っている」と見るのは浅はかです。ダックワース氏は訳語的な「才能」を「知的領域」を照準にして語っているだけなのです。論界を読む限り、ダックワース氏は人の持つ能力を「知的な領域」に枠嵌めて、偏って評価するものの見方に警鐘を鳴らしていると思われます。

どうやらアメリカなどの西洋諸国は文化的に物心を分けれて捉える哲学観があり、合理として論理的に訴求できない世界は判断基準として認めない習性があり、能力もその一つに入っているようです。一方日本は古来から物心融合の観念が強く、精神的なものも判断基準として捉え、情的な能力も才能の一つとして捉える文化があります。この違いが「才能(という訳語)」と「やり抜く力」とを区分けした「グリット」概念の紹介において、「どちらも才能の一つではないか。何が云いたいのか」という前提面での違和感を日本人気質にもたらしてしまったポイントになっているのではないか、と私は見ています。

ただその日本人も戦後のGHQ施策などもあって、形骸的に西洋文明化していき、気質までもが欧米化して才能は「知的な能力」を指す偏った動きになっているのは周知のところです。一方で運動や芸術面での才能には法外な評価をするという(多分評価軸をなくしてしまっているから)アンバランスさを生み出しているのも際立った特徴になっています。日本人としてのアイデンティティを見失っているという証ですね。ブランド信奉や欧米コンプレックスもその一つでしょう。そういった意味においてはGHQの日本の持つ価値の体系を崩壊させ、精神的支柱を取り払うことで反抗的な心(逆らう心意気)を消し去ろうという施策は大成功だったのではないでしょうか。

話が少々ずれました。戻しましょう。精神性とは何でしょうか。その一つの見方として「自然との向き合い方」があります。

デカルトやカントの論説に目を通すと明確ですが、西洋は「自然は支配するものであり、人のアイデンティティは自然からの分離にこそ原理がある」と見ています。まさに「知的こそが人間の価値である」という思想です。それが物質文明という価値観をもたらしました。精神を満たすのは自然の支配であり、あくなき物質的な取得と消費であるという考え方です。

一方戦前までの日本は「人のアイデンティティは自然との調和にある。あらゆる存在は繋がりあっている」としていました。現在も内心的にはその余韻は残しています。そして日本人は、「物質と精神は相互に働きかけるもので、互いが互いを表現する」と見ていました。そうして因果応報の持つ倫理感を生き方の中心においてきました。これは「バタフライ効果」という概念にも当て嵌ってきます。

物心を分離した生き方はどういった生き方を招くでしょうか。文明の成長期(特に高度な)においては精神的な満足感は物質的な消費が埋め合わせてくれます。精神的な空虚感を埋めるのは欲望、消費だからです。その西欧では今成長、特に物質的な成長に限界が起き、一挙に満足が満たされない空虚感が蔓延し始めています。

では日本はどうでしょうか。戦後精神的支柱を破壊された日本では、一挙にアメリカの消費文化を模倣するということに傾倒しました。欧米のような歴史的な中身もなく、ただ本能の赴くままに欲望を享受するための方便として、富の取得に邁進し始めました。

そして戦後30年に及ぶ高度成長やバブル景気が更に目先の快楽や物質的満足を煽り、精神的な面で考えない文化を作っていきました。欧米からは「エコノミック・アニマル」と揶揄される呼称も貰うくらいにそこに傾注しました。若者はひたすら「かっこいい」に走りました。そのガイドだったのが「ブランド」でした。そして華やかだが虚しさが漂う日常を送り続けました。そのあたりを詳しく表現したのが、芥川賞を受賞した「なんとなくクリスタル」の世界ですね。そして世紀末に破綻が起きました。精神的に考えるという力を失った日本人(の若者)はその状態でどっと空虚陥りました。中にはその心を埋めようと様々な宗教に走った人もいました。そして事件も引き起こしました。カルトではなく、オタクに走った若者も多くいました。リアル社会に意味や目的がみえず仮想の世界に自分の救いを求めました。居場所をバーチャルに求め、外に出ず、籠るようになりました。ボランティアの世界に居場所を見出した人もいました。皆一様に精神的に不健全だったが故の行動でした。この動きは現状も続いています。これが日戦後日本において精神的柱を失った姿と云えるでしょう。

ここで明確なのは、テクノロジーやお金には持続可能性はない、という真理です。合理化が未来ではないという認識は今西欧では強く高まってきているようです。そして進歩と富を別に定義しなければならいということも。

そしてこれからは精神的成長が欠かせないという考えに焦点があたってきています。富から離れた進歩を得るには、内面を豊かに育む必要があるからです。それには「何も無い空虚から無心としての空虚への思考の転換」が求められます。その上で「空手」ではないですが、内なる力を引き出す力の醸成が求められます。創造は無から生まれるからです。

その様な風潮を背景に、最近の西欧では「本当の自分自身を見つけるまでは自由になれない。自由を得るには、まず心の在りようを消費ではなく無として捉え、ありのままに自分を見つめ、それを受け止める必要がある」という考えが勃興してきていて、それが瞑想や禅への関心の高さ、日本への関心の高さに繋がっています。

反対に日本人の方が、古来からの思想を壊された上に借り物の思想に漬け込まれた影響で、代を重ねる毎に、日本人が古来より持っていた本来の精神を失ってきています。そのような日本に西欧人が観光できてどこか物足りなさを抱いているのも少し悲しいところです。

こうして欧米では改めて脚光を浴びている「グリット」のような力を、それは「当たり前の力」とどこか覚めた目で評価しながら、実は「人生の目的も描けず、意志に対しての情的な高揚の経験も持てていない」多くの日本人の実態。これらは本当の意味においての解決は、政治的であり、集団的でないと社会的な進化や発展には寄与できませんが、先のボランティア活動のように、乾坤一擲として一人一人が目覚めていくしか始まりません。日本人こそ今脚下照顧のときだと私は考えているのですが。

人間はその進化において知恵を身に着けました。知恵は「意味付け」から始まります。「意味を持った」動きをするのが人間です。そして、その意味を認識し、動きに繋げる方便が「目的の意義」になります。だから人間は「目的的存在」であるわけです。

そして目的の究極性は「利他からもたらされる幸福に至る」という倫理観にあります。それが人間が社会的に相互に有しているエンゲージメントでもあります。

詰まる所、倫理観に根ざした目的意識を持っていない人は、オーセンティック(嘘偽りのない)な幸福は得られません。そしてそういった究極的な目的意識を醸成するには、まず「無心としての空虚を持つことから、ありのままの自分を受け入れて、無から生じる想像力を育む」取り組みをすることがスタートになります。全ての起点は「無」であり、全ての終点は「無」である。何も無いという「無」ではなく、「無心としての無」です。禅の心境です。岡山の備前の刀匠は、刀を作る前に3日間瞑想するそうです。そうして心を一点に集中させて刀を打つのだそうです。仏教は全ての生命の相互作用について説いていますが、それを体現するのが禅の取り組みです。やり抜く力は知的な能力ではなく、情的な能力です。これは単に理屈で理解する世界ではなく、体得する世界です。

三重県松阪市にある小津安二郎の墓碑銘にはただ一文字「無」とだけが刻印されているそうです。私はグリットの示す「やり抜く力」という「情的な能力」はこういったプロセスから掴めていくものと認識しています。

グリットでは、以下の6つの要素が必須の要件であると説いています。

①自制心(我慢が学習精度を上げ、意志力を上げる。エネルギーを蓄える術である)。これは日本的には「忍」の一字です。

②目的意識(情熱の薪、胤です。意味を持つということです。クールなモメンタムです)。

③希望(楽観的であるということです。ポジティブ思考です)。

④熱意(気持ちの高揚です。ホットなモメンタムです。)

⑤謙虚さ(慢心しないということです。感情的にならないということでもあります)。

⑥勇敢さ(リスク耐性を持つということです)。

如何でしょうか。禅の教えと相当にダブる概念ですね。グリットが流行る欧米の状況やそういった欧米人が禅の思想や修行に憧憬を持って日本を訪れる姿は全て整合があります。私はグリットは禅の科学的な解説書だと見ています。

今欧米同様、それ以上にグリットが求められる日本人が、その真意を捉えて、そういった概念を持って禅の取り組みを活用して頂ければ、相当に創造もブレーク・スルーも成し遂げれるものと固く信じている次第です。

今回はかなり哲学的なアプローチをしましたので、頭が疲れる面も多々あったかと思います。ということでこの位でペンを置くことにさせて頂きます。お付き合い、真にありがとうございました。

それでは皆さん、次回のソモサンも何卒よろしくお願い申しあげます。

さて皆さんは「ソモサン」?