• 今若者に求められる考えや力は何であるのか、を問う ~ソモサン第263回~

今若者に求められる考えや力は何であるのか、を問う ~ソモサン第263回~

皆さんおはようございます。

先週の中国新聞に気になる記事が乗っていました。題して「電話が怖い」若者たちの悩み かけるのも受けるのも… 「失敗するかもと不安」「迷惑になりそうで」。内容は以下のような要旨でした。

『電話の着信音が鳴るとドキッとしてしまう。迷惑かもと思って電話するのをためらう。若者たちからは、電話はかけるのも受けるのも「怖い」という声を聞く。社会人になるとどうしても避けられない電話だが、なぜ電話は緊張するのか。就職直後のある女性は、「着信音にびくびくして、1回鳴るだけでドキッとする」という位に電話応対が苦手だった。理由は業務の内容を十分に把握できておらず、聞かれたことにうまく答えられないこと。また謙譲語や尊敬語の使い分けにも苦労したことだった。ところがようやく慣れてきた頃、顧客から電話応対についてクレームがあった。「それ以来、質問されたらどうしようか、また失敗してしまうかもと、不安が不安を呼んでしまい。更に電話を取るのが怖くなりました」という。元々この女性は友だちとのやりとりはLINEやインスタグラムのメッセージが殆どで、緊急時以外は電話しなかった。彼女は「電話は顔が見えない分、臨機応変でスマートな受け答えが求められますよね」と呟く。彼女だけではない。このように電話に苦手意識を感じる人は少なくない。セゾン自動車火災保険(東京)が2020年に20~60代の300人を対象にした意識調査では、回答者の4割が電話にストレスを感じているということが分かっている。「電話だと緊張してうまく話せないことがある」と答えた割合は、20代が最も多く、男性は21・1%、女性は30・4%だった。ある女子大生の場合、スマートフォンにかかって来た電話も非通知なら出ない。知らない番号はインターネット検索して、かけ直す。』

我々世代でも電話は「相手の顔が見えず、相手の感情の機微が読めない」ので、対面でのコミュニケーションよりも苦手な面があるのは確かです。それにしてもこの内容には苦笑いさせられます。ここには、まず「心が打たれ弱くなっている」というレジリエンスの問題が潜んでいます。またコミュニケーションでの経験不足からくるネガティブ・ファンタジー(否定的幻想)というヘッド・トリップ現象も潜んでいます。そして何よりも押さえておきたいのは、対人の前提が「懐疑」であるということです。そのバイアスで思考を展開させているということです。

それにしても最近の若い人はどうしてこのような基本的思考になってしまったのでしょうか。私が幼少期であった「3丁目の夕日」の世代は隣から味噌や醤油を借りるような、近所のおっちゃんからでも平気で叱られるような町内ぐるみの信頼感があったように思うのですが。そして地域でのコミュニケーションで対人能力を磨いたようにも思えるのですが(私の場合はその後の転校の連続で、今度はよそ者排除感の影響で何処か対人への警戒心や打算的な対人技能が磨かれてしまったという悲劇もありましたが)。

相手と関係を結ぶのはなぜ? ~利己的な人間関係に未来はあるのか?~

アリストテレスは倫理学において、「友愛」や「信頼」について次のように分析をしています。

「友愛の根底には3つの思いがある。それは、善いもの、有用なもの、快いものである。それによって、人柄の善さに基づいた友愛、有用性に基づいた友愛、快楽に基づいた友愛の3パターンが生み出される。その中で、有用が故に互いを友愛し合っている者たちは、相手に対し、相手そのものとして友愛しているのではなくて、相手から自分自身に何か善いものが生じる限りにおいて相手を愛しているのである。快楽のゆえに愛する人達も同様である。そのため、友愛する側の者たちは、相手が最早快くなかったり、有用でなくなったりすれば、愛するのを辞めてしまうのである」。アリストテレスは、友愛の条件として、「相手に好意を持ち、善を願う。相手に役立ちたいと思う。同時に相手もこちらに好意を抱いている。そして互いに相手の思いに気づいている」ことを説き、その状態が「信頼」である、と云っています。つまり、「お互いに話し合い考えを深めれるような、お互いの人柄の善さに基づいた友愛が信頼の元である」と云っています。ただその人柄には、多少の有用性も快楽も含まれているから、高潔なのが信頼でもないと付け加えています。

有用が故に結ぶ友愛は信頼ではなく、また友愛にも至らない。私の周りでも一見友好的に見えても明らかに「有用が故」の友愛を表する人が一杯います。「この人といれば得だから付き合う」といった輩です。そういった人に「人柄の善さ」を求めても詮無いことです。というよりも経験的には一方的にガスを抜かれていきます。時にはせっかく築いた自らの人的資産を放逸しかねませんし、事実私も会社組織の崩壊に直面したこともあります。

人柄の善さにおける友愛と有用が故の友愛は快楽のための友愛(遊び友達)とは違って分別しにくい面があります。有用が故の友愛も快楽のための友愛も離れればそれまでで、その状態で見切れるのですが、関係の最中では見極めにくいものです。離れてからでは後の祭りになります。ではどうすればある程度の見極めがつくのでしょうか。その一つは奉仕の態度や利他の態度です。まず何が得られるかを前提に動く人は明らかに有用が故、です。これは言動ではなく行動に滲み出てきます。自分が損をしたくない、つまりは傷つきたくないが優先して相手を一旦受け止めようともしない人、出来ない人は有用が故の人です。私の身近にも口では「感謝感謝」と宣うけれども、その態度や行動は卑屈で排他的な人がいましたが、まず持って内省や反省が出来ません。典型的な有用が故の友愛しか分からない人でした。更にもう少し深く見れば、相手の善を悲しむ反応をするかどうかで見極めれます。「相手の善を悲しむ」とは「嫉妬心」のことです。相手の利を共に喜べない人かどうかは重要な視点です。こういう人は「自己顕示」の発言や振る舞いが多いので一目瞭然です。

ともあれ有用性を重視して生きると、結局は相手もそう対応しますから得るものも得れず、対話がないので成長も出来ず、結局は求めていたその有用性さえも失う結果となってしまいます。待っているのは孤立です。足掻けば足掻くほど陥っていく蟻地獄の世界です。

ところで信頼には時間と親密性がかかるのは必定です。それには何処かである種の覚悟が求められることになります。例えば、深い友愛や信頼を得るには、多くの友人を求めることよりも、ともに生きるのに十分な友を求めることの方が良いということは確かです。当然ですが、多くの人と付き合うという生き方や時間の使い方をすれば、信頼を共に生きようとする人を作る時間を失うのは自明の理です。人生はトレードオフです。そして後者の方が軌道に乗るまでは艱難辛苦を伴うこともあります。初めから人柄として善いものを持った人と巡り会える確率は低いものです。また相手が同調するのも多少は噛み合いに時間がかかります。自分が未熟でも相手として奉仕的に付き合ってくれる人など親を除いては稀有です(今やその親でも怪しい限りです)。前者のほうが絡み合いが弱い薄っぺらいだけに楽なわけです。これはまさに快楽のための友愛の領域です。

ところがこうしたはっきりとした論理があるにも関わらず、今の若い人は先のとおりに「有用が故の友愛」や「快楽のための友愛」に走ったり、そこに身を浸すことばかりを考える人ばかりになってきています。

やはりこれはまずは親の教えの問題が第一義です倫理の教育をおざなりにしていることが積み重なってきている証としての現象と云えます。期初に何もないので当然「目的意識」も醸成されていませんし、「振り返る」といった内省をする力も鍛えられていません。

モメンタムで云えば、クールモメンタムが発動する素地自体が生み出されていない中で、まずはその素地づくりから始めないと、日本は海外から思想的価値観的に置いていかれることになるでしょう。正直そこは私としても悩ましいところです。その一つとして、西洋からの宗教も良いですが、出来れば日本の文化に根ざした宗教がもっと哲学的な思想に対して真摯取り組んで欲しいと思うところです。そしてもう一つは企業組織の使命感です。今や倫理よりも利益の価値観に塗れててしまい、企業の本来的意義を見失った組織が蔓延しているのも見逃せない視点です。これも組織単位で有用が故の友愛という思想が(企業)人格としての友愛を凌駕してしまい、人間性を軽視して有用性を軸とした雇用や評価によって、組織内のチームワークが乱れ、潤いを失い、メンタル障害を続出させ、結局は有用ささえも失わせる結果になっているというあり様です。

中国新聞の記事には続きがあります。『大学や企業側もそんな若者に苦慮している。大学で学生の就職活動を支援する職員は、相談に来た学生の携帯電話に部署の電話番号を登録するよう求める。理由は「登録されていない番号だと、出ない学生は多いから」。企業でも、休みの日に電話を取らない20代の若者に困ったことがあるそうで、急な対応が必要なこともあり「まずはメールで電話してもいいか確認してからかけている状態」とのこと。更には電話をかける際のハードルも高いようで、ある女子学生は「企業に問い合わせの電話をしたくても、かけるタイミングが分からない。相手が何をしている分からず、迷惑になりそうで」と話す。 それを受けた企業側では、それまでマナー研修の一環だった電話応対研修を別メニューにするなどして対策に力を入れ初めている。 新入社員に電話応対の指導をする講師は、「ここ数年、研修でも会話のやりとりが苦手な若手が目立つようになった」と説明する。業務では顧客から細かな要望を聞くことも大切なため、「通り一遍の研修ではなく、企業側も今の若手に合わせた工夫が必要になっています」と話している』。

もはやイタチごっこの感があります。ではどっちが意を正せばよいのか。答えは明らかのように思いますが。

グリット(GRIT:やりぬく力)の手前にあるのがモメンタム

さて、ポジティブ心理学で著名なペンシルバニア大のA.ダックワース博士はその著「グリット」において偉業を達成するのは「才能」ではなく「努力」であると述べています。グリットとは「やり抜く力」という意味で、モメンタムと非常に近似した概念です。両者の視点の大きな相違はグリットが持続的な精神力(持久力)を対象にしているのに対して、モメンタムはグリットに内在する持続力も含めてその「力」を惹起させる「瞬発力」を対象にしている点です。

ダックワース氏は諄いほどに成功は「才能」ではなくある種の「努力」であると主張しています。こう聞くと日本人特有の「努力は才能に勝る」といった価値観を持ち出して、「努力すれば報われる」感を振りかざす人が出てくるやも知れませんが、ダックワース氏は努力を安直な概念論としてではなく、理論として捉えています。そして達成のための努力は、才能を技能に繋げるための努力と更にその技能を達成に繋げるための努力の二重努力によって成り立つと論じています。私的には日本人は技能のための努力はすれども達成のための努力を殆しない習性があると見ています。

この「努力」に対して、ニーチェは以下のように語っています。「努力するとは、一つのことをひたすら考え続け、ありとあらゆるものを活用し、自分の内面に観察の目を向けるだけでなく、ほかの人々の精神生活も熱心に観察し、至る所に見習うべき人物を見つけては奮起し、あくなき探究心を持ってありとあらゆる手段を利用することである」。

グリットには面白い指摘があります。「人は新しいことを始めても長続きしないことが多い。しかしグリット(やり抜く力)のある人にとっては、一日にどれだけ努力するかより、来る日も来る日も、目が覚めた途端に、今日も頑張ろうと気合を入れ、ランニングマシンに乗り続けることが重要だ」。ここに出てくる「気合」に値するのがモメンタムです。つまりグリットでも重要なのは「今日も頑張ろう」というモメンタム・アップの意志だと云っているのです。

では欧米では何故に瞬発的なモメンタムよりも持続的なグリットにより目が向くのでしょうか。それは欧米人は幼少期からキリスト教的な倫理観などからモメンタム(特にクールな)の源泉となる人生としての目的意識が植え付けられているからでしょう。例えば愛国心などがそれです。一方日本人は戦後の学校教育などの偏りで倫理観の醸成が足りていません。この弊害は冒頭に書いたとおりです。ですから人生レベルでの目標意識ですらが持てていない人が増殖してます。だから欧米人の多くが有しているモメンタムが育まれていないわけです。でもその欧米人ですらより具体的な職業に反映されるレベルでの目的感、それも使命感くらいまでに拘った目標感を描いている人は少ないのが現状で、そこではグリットの重要性が求められることになります。そこが日米の大きな場の違いになります。

実際、ダックワース氏の云う「やり抜く力」は「情熱」と「粘り強さ」の要素で成り立つと云っていますが、グリットはどちらかと云うと「粘り強さ」を重視するのに対して、モメンタムは「情熱」のあり方を重視します。だからグリットがさほど注視しない「熱中」や「夢中」を重視します。それがホット・モメンタムです。

グリットとは、モメンタムの次に出現する世界観と云えます。「哲学感」や「究極的関心」の保有が論点になります。モメンタムは勿論それがないと着火しないので軽視はしていませんが、論点は「心に火をつける」ことです。着火が目的なのです。

次回はもう少しグリットとの比較からモメンタムや日本人にとって何故そこがポイントになるのかを話していきたいと思っています。

そは皆さん、次回のソモサンも何卒よろしくお願い申しあげます。

 

さて皆さんは「ソモサン」?