アート思考とクールモメンタムを考える~ソモサン第237回~
ショートソモサン①:失われた30年に潜む「モメンタム消失スパイラル」
皆さんおはようございます。
今回は連休前なので少々長文になりますのでご容赦ください。
またまた NHK特集の話で恐縮ですが、「異次元緩和が思うように機動しなかった主因」についての興味深い番組がありました。内容は主にいわゆる理論と現場の遊離についての典型的な事例が目白押しに紹介されるものでした。特に日銀内の研究員が案出した「マイナス金利」政策に関しては、「役人のヘッドトリップの典型」としてリアルへの感受性のない計画が如何に想定外の状態を生み出すかが具体的に描かれていました。日銀は金利をマイナスに設定して、銀行が「お金を抱えたままでいると目減りして行く」という枠組みを設け、それによって銀行が一生懸命企業にお金を貸し出すことを奨励すれば市場の動きが次第に活性化するだろう、と読んだのですが、実際には真逆に展開することになりました。私的には「幾ら銀行が低金利で貸し出しを推奨しても、市場側が未来への見通しが得られない限り無理は投資はしないので、そう簡単には借りないのではないか」と見ていたのですが、案の定というか、それ以上にというか、実際はマイナスという呼称に反応した人々が、「お金を銀行に預けても仕方がない」と考えてよりリスク回避に走り、タンス預金に転じてしまうという状況を生み出してしまいました。儲ったのは金庫屋さんだったという笑い話のようなことになってしまったのです。現在の日本のタンス預金額は世界の中でも圧倒的で、約50兆円に登ります。個人資産ベースで見ても、1800兆円の内現預金が1000兆円で、約55%に当たります。欧米では現預金は約15%位ですから驚くべく話です。当然現金で溜め込んでいるだけですから経済は動きません。投資がされないとうことは、研究開発や人材開発にお金が行きませんから全てはマイナス基調になります。また経済価値からすると同じ1万でも時代で目減りしますから20年では9000円前後くらいになってしまいます。実際そういった現実にぶち当たってしまったのです。当然多くの銀行は行き詰まってしまいました。預貯金が減る一方になるのに貸出金利は下がり、しかも貸出先が増えないという銀行としては深刻な赤字状態に陥ってしまいました。一方で堅実な投資先として、固定資産のような不動産は好景気となりました。結果を受けての分析では、今や年金受給者が増えて節約志向が高まっている。金利の動きには非常に敏感で、マイナスという言葉の持つ印象力は予想以上に大きいということでした。まさに日常的に金の苦労を知らない官僚さんにちょくちょく見られる庶民感情への感度の悪さ、ヘッドトリップの典型が感じ取れます。この施策は庶民もそうでしたが、企業においてはもっと強い反応が生じました。日本は世界的にも圧倒的に中小企業が多い経済社会です。企業も庶民指向が非常に強い環境と言えます。企業も庶民同様に首をすくめて投資を控える状態になってしまいました。内部留保に偏重した動きとなり、動きは低迷してしまいました。更にその動きは助実に賃金対応にも反映しました。給与が上がらない。当然値上げなどもっての外です。この動きは人件費だけでなく人材投資へのケチりとして経済への実力、競争力が下がる結果に繋がってしまったとNHKは指摘していました。人にケチることが成長どころか衰退への悪循環を産んでしまったのです。
ここでの教訓として、NHKの番組は「かつて日銀が行ったゼロ金利政策のような中途半端な金利操作の施策位では変化は望めるものではない。実際にバズーカと称されたような異次元的な緩和施策でも経済の動きは変わらなかった。それ位長期のデフレの経験による人々の考え方や慣行の固定化は根強いものがある。それが今回実験というわけではないが、この10年の取り組みでようやく分かった」という理事の話を挙げていました。また退任した黒田元総裁も最後の挨拶で「国民の長期デフレによる固定観念が打破できなかったのが心残りだ」と纏めていました。
私がここで成る程と思ったのは、日本が癖のようなに身に付けているケチりのやり方です。全く出さないといった動きではなく、中途半端に「やっている振りをする」という所作です。その場凌ぎの「誤魔化し対応」で未来よりも今の体裁を第一義に動いてしまい、これが結果的に「安物買いの銭失い」を助長することになってしまう。そしてそれが受け手にとって目に見えてしまうため、意欲的に前向きになれずに、打ち手が返って無駄遣いに繋がってしまうという現実がこういったレベルでも起きているということでした。リスク回避が前提に立つ日本。徹底させない日本。集団主義の日本が抱える保守思考や固定観念への固執へアプローチすることの困難さや、風土的にモメンタムが容易くは発動し難い心性にあるという現実には心底嘆息するところでした。これだけの失敗を重ねながら日本はどうしてこうも心理についての探究が浅いのでしょうか。本当に不可思議に思う次第です。社会はもっと心理という科学に真摯に対峙する必要があるのではないでしょうか。
今回NHKの番組でも、内容の最も重要なキーワードとして「人々の期待」という「心理」面に照準を強く当てていました。日銀の分析では「国民の賃金感度や消費感度を読み取れなかった。緩和策で企業の活性を促せば、賃金が上昇して購買意欲が高まると見ていたが、企業は賃金を上げなかった。そして庶民も将来への不安感から購買意欲が上がらず、よって物価上昇も起こらなかった。デフレの悪循環は止まるどころか加速していった」ということでした。これは平たく言えば日銀や審議委員の人達は結果として「人々の期待」を裏切った形にはなりますが、そもそもは「期待が読み取れなかった」「心理という世界を軽視していた」ということに帰結します。審議委員の1人は「デフレ対策というシステムが構造的に動かなかった」と評していましたが、この物言いにこそ論点があります。これこそサイエンス偏重によるシステム論から来るヘッドトリップの最たる見解です。経済的な論理をシステム的に組み立てれば人もそれに従って動くはずという思考です。少なくとも番組内での見解には、構造という中に人の心理、特に動機という要素に対する分析的な言及は全くありませんでした。ノーベル賞にもなった感情経済学などどこ行く風といった塩梅です。私的に考えるのは、今回の話は庶民感情、市井の人たちへの「共感」という観点での心理的な読みが軽視された中で組まれた構造論による施策によって、構造自体が崩壊したに他ならないということだということです。人の気持ちの動きを軽視した施策。動機を査定しない中での取り組み。これでは人の心にモメンタムが起動するはずもありません。無論人の動きが起きない以上成長戦略も起動しません。結局日本は(エリート達の)物理や事理を軸としたサイエンス思考偏重によるヘッドトリップの中で、不確定要素は多くても最も大事である人の心理の動きやそれを梃子にした成長戦略への観測を怠りながら、強引に三本の矢という日本再興戦略を推し進めようとして、結果金融戦略のみに依存した状態に陥って隘路に嵌ってしまったというのが現状のあらましということになるのでしょう。
そういった中でコロナ禍が起爆となり、またウクライナ問題によっての価格が上昇が後押しとなって、あれだけ人為的に仕掛けても動かなかった物価が、2%の上昇どころか4%を超える状態となり(来月もまた上がりますね)、そしてそれが賃金の引き上げにも影響するのですから全くもって皮肉な話です。結局日本は相も変わらず外圧からでしか変われないのでしょうか。
ショートソモサン②:外圧でしかかわれない日本の現実
残念なのはこういった日本の体質的な反応が、企業の「人材への施策」のあり方にも助実に出てくるということです。ようやく賃金引き上げは横並び的に動き始めましたが、多くの企業では相変わらず人材への投資は背後回しで取ってつけた(一応やっています的)アプローチがばかりが目立ちます。理由は人材開発を未だに予算管理だけでみる保守的な固定観念です。そこには未来に向けての投資といった発想はありません。変化に対する感度が鈍い。これがいわゆる島国根性の歴史が生み出した国民性の現れです。ようやく定着して実装化され始めたマインドフルネスなどの取り組みも、積極的な動きというよりも、生じてきた様々なメンタルヘルスにおいて、組織に起因するストレスを低減させるためという防衛策的な取り組みが目立ちます。そしてこれまた海外からの黒船的導入で、普及に10年近くも掛かっている状態です。ともあれこの姿勢では攻撃的な「勢い」としてのモメンタムに至るには何年掛かることでしょうか。モメンタムが発動しないということはリーチアウトも起動しないと言うことに繋がります。それは詰まるところ成長に向けての状況打開も生じないということを意味します。かつての開発途上国から経済成長で次々と抜かれゆく現状においてこれは大変憂慮される事態だと私的には思っているのですが。
社会や組織がもしも真剣に変化を気するならば、もっと人の心理を認識しなければなりません。特に能力のような表層的な面よりもそれを喚起させる意欲や動機といった面に注目しなければなりません。先の日銀のような思考では隘路に入ることは火を見るに明らかです。
皆さんも感じておられるでしょうが、この10年の金融施策において全ての経済が沈滞したわけではありません。NHKでも紹介していましたが、不動産を始めとした資産形成分野での成長は目覚ましいものがありました。日銀が施策的に恩恵を授けたからです。人々は賢明ですからそういった将来明らかにプラスと映ることには飛びつきます。結果業界は大好況となりました。今時点でも都内のマンション価格は遂に平均1億を超える様相になりました。人は自分にとってプラス(得)になることにはモメンタムが働きます。これはこれまでもご紹介してきた認知的動機を司る弁別モメンタムの働きです。今後はよりマッチングした意味合いとして「クール・モメンタム」と称しましょう。そしてクールモメンタムに導かれて情動を司る着火モメンタム(これもこれからは「ホット・モメンタム」と称しましょう)が発動して感情が高揚し、リーチアウトな動きが加速されます。この心理システムが強く作用して不動産に動機が動いたといった流れです。人は誰しもモメンタムを内在しています。日本の経済社会はもっと欧米の様に真剣に心理学を取り入れる必要があります。
実際もしも日銀がこの心理の働きを知っていたら、もっと違った打ち手があったのにと私的には考えています。もしも人の感情という心理分野をもっと真摯に科学して、それを施策に取り込んでいたら。
それにしてもどうしてこういった心理、特に人の期待といった感情に向けての心理がおざなりにされて、物理的、事理的なシステム論とか構造論といったサイエンス思考が闊歩してしまうのでしょうか。そこには欧米にはない日本独特の動きも垣間見えて来ます。日本でも少なくとも富国強兵策前まではその様な風潮ではなかったのは確かなことです。そこに大きなヒントが潜んでいるのではないでしょうか。
私はそこに前回も強調させて頂いているアート思考の教育的な欠如を見て取っています。そして現状の市井で若者に多く見られるモメンタム弱体の原因も同じところに起因していると考えています。弱体の度合いは現行の教育施策が浸透するにつれて強まり、応じてレジリエンスの弱体化も度を増していっています。
ショートソモサン③:モメンタムを生み出すためのアート(美学)思考
アート思考とは、「自分ならではの独自なパターンを持った思考のあり方」で、日本では「美意識」とか「美学」と称されています。このアート思考は①観察力(思い込みを持たずにつぶさに観る目)、②質問力(積極的に聴く力)、③想像力(独創的に発想しオプションを創作する力)、④統合力(物事を関連付けたり、ストーリー付けたり、イメージしたり、ビジュアルする力)、⑤共感力(場数を通して感情を理解し、それを紐づけ、それを経験化する力)といった5つの力の要素が混ざり合って駆使される中から生み出される思考パターンです。この思考から汲み出される認知の有り様が、打算的な期待に向けてクールモメンタムを発動させます。そして時にホットモメンタムを加速化させたり減速化させることで人の動機を操作することになります。
アート思考がサイエンス思考と最も異なるのは、全体を全体として統合して俯瞰した像として捉えるところです。サイエンス思考は「分析する」、分ける思考です。この思考は専門性を極めるには欠かせません。物事を要素還元的に捉え、要素を分解して問題点を特定して解決に繋げるというアプローチは、物事を改善、効率、正確、増産、品質を生み出すには重要な思考です。しかしこの思考は相互作用が考慮されず「知識の断片化」を生み出すという側面を抱えています。また物事は必ずしも要素が還元できるとは限りません。機械のように問題要素を特定してそれを取り替えるといったアプローチでは有機体は存続できないというのは自明の理といえます。人の利得に対する認知も様々な情報要素が複雑に絡み合っており、全体を俯瞰した中で直感的に捉えるしかないのが実際です。ここで言う「直感」とは「経験や体感による暗黙知の情報なども含めた知識を瞬時に、時には無意識に統合して判断する感性」といった観念です。「閃き」などもその一つと言えます。
人の思考プロセスや判断はサイエンスとアートの両面が相互関連して営まれているのが健全な有り様です。ところが富国強兵策以降の日本の学校教育におけるサイエンス思考偏重のアプローチは、偏った思考の人材を多く輩出することになってしまっています。そしてエリートと称される従来のアプローチでの成功者ほどその偏重が強くなります。戦前までは旧制高校などで「デカンショ」などと称して哲学(美学と同じ)を身につけることを奨励する気風がありましたが、戦後はそれも無くなってしまいました。
哲学観や美学観が思考に中になくなると、全体を有機的に俯瞰すること、特に人間に内在する心理のような有機的領域への解釈が弱くなってしまうことになります。皮肉なことに人は得意なことにはモメンタムが働きますが、苦手なことは避けたくなります。得意にモメンタムが働いてそこが特化されることになります。そして立場上でそれが許容される度合いが強くなるほどに指摘もなく無意識にその偏った度合いが強い思考になっていくわけです。この風潮を変えようとしてよほど意識的にテコ入れをしても、ことの変容は容易ではありません。
私はその結果が今回の日銀のヘッドトリップにも現れていると見ています。これまでの日本の成長は欧米の模倣であれば良かったしフォローウィンドが基調でしたから、独自性は求められることもなく、サイエンス偏重でも問題は発生しませんでした。それが戦後70年以上も続いて出来上がったのが今の日本の風潮の基盤です。しかし2000年代に入ってからの日本は逆境の中で新しいものを創造しなければ立ち行かなくなっているのが現実です。それは皆薄々と気が付いています。でも老齢者たちのクールモメンタムは、自分だけはこのまま逃げ切ろうと誤魔化すことに動機づいています。その上日本は未だに年功序列意識も根付いています。今の若者がモメンタムが上がらないのは当たり前の話なのです。そしてモメンタムの上げ方も学んでいません。メンタル問題の根っこもここにあります。
ショートソモサン④:やすらぐためでなく刺激を得るための絵画鑑賞
モメンタムはどの様に上げ、管理すれば良いのか。その入り口は、まず認知を司るクールモメンタムを活性させる原動力としての美学を磨くことです。アート思考を身につけることです。クールモメンタムは前頭前野へのドーパミン排出によってコントロールされます。その心理学的な動きは期待形成のメカニズムを無意識で打算する役割を担うことであり、それは想像力、統合力、共感力の強弱に現れます。これはアート思考の要素と合致してきます。そしてそれを相互作用という観点から捉えると、上記3つの力を磨くことがドーパミン排出のパイプを太くするということに繋がります。これはいみじくもアート思考を身につけることと同じプロセスになります。そうアート思考を鍛える訓練がクールモメンタムの力を活性することに繋がり、引いてはホットモメンタムの意識的なコントロール力の取得にも繋がってくることになります。アート思考を磨く取り組みを通して前頭前野を開発し、ドーパミンの伝達経路を太くするわけです。
アート思考を身に付けたり、それを磨くには、アート(美学)に触れるのが一番単純で効果的です。それは絵画のようなビジュアルであったり、音楽のようにオーディナブルなものであったり、武道のような精神性の体感であったりします。自分に合った感性の世界から入っていくのが一番です。
具体的には、絵画や音楽のような感性で捉えた情報を俯瞰的な論理思考に落とし込む、それによって哲学や文学的な思考力を磨いていきます。感情と論理を繋ぐことから認知の幅や深さを練磨していきます。
その最も効果的な教場なのが絵画鑑賞です。それは音楽や武道には具象がないので、その世界観を思考に落とし込むにおいては絵が一番取っ掛かりやすいからです。音楽は楽譜を読む能力が入りますし、歌詞がある場合、メッセージはダイレクトで受け身になりがちになります。武道のような体感はその境地に至るまではかなりの修練が必要になるからです。但しやはり好きなものが一番開花させやすいのは確かですから、没心できる領域で鍛えるのも大事なことです。
そこで絵画鑑賞です。日本人は「心の安らぎ」を求めて美術館に行くのと対照的に欧米人は「非日常的な刺激」を求めて美術館に行く。日常の中で、自分なりの物の見方や美学を持っている人が、それが弱まってきている時に刺激剤としてアートを求める。アートは何通りにもの答えが可能だから自分を取り戻すにはうってつけである、というのが欧米の人の捉え方です。ここに日本人は絵画鑑賞をマインドフルネスを中心にしているのに対して、欧米人はモメンタム活性を中心にしている有り様が見て取れます。
絵画は18世紀に写真が登場したときにパラダイム・シフトが起きました。それ以前の絵画はその時代や背景に明確なメッセージがありました。神話や宗教の教義が背景にあったり、時代の風潮が背景にあった中で、絵のディテールは非常にメッセージ的でした。「愛」「喜び」といったメッセージを表情や姿勢などで象徴する存在でした。絵柄も写実性が前提でした。ですからアプローチは「読み解く」であり、内容的にも「静的」でまさに「目から行うマインドフルネス」といった塩梅でした。私が絵画に接するのに最初は古典の方が入りやすいといったのはそこにあります。
その世界は写真が写実を担ってから一変します。絵画はどんどんとより抽象的で感覚的、感情的になっていきます。印象派は縁描画のように「色」に力点を置いて普通は目に見えない「光と影」をメッセージし始めます。また野獣派は更に自分なりの心象を色に託した「独自の色使い(目に映る通りに描く)」の絵を描きました。キュービズムは遠近法から離れて「自分なりに立体を捉えた(自分のイメージを映し出す)」絵を描きました。何も自分なりに抱いた心象や感情を象徴して絵に再現させるアプローチをしています。近代絵画は「読み解く」よりも「感じ取る」ことを基軸にしているといえます。
絵画は19世紀から「感じ取る」ことから新たに「考え方を拡げる」「考え方を変えてみる」存在に転換していきました。その下支えを浮世絵といった当時の日本の芸術が担っているのは面白い話です。そして今や写真も写実的な具象から抽象の世界へ挑戦をしているのが視覚アートの世界です。
これは彫像のような造形物に関しても同様です。これならば日常の中で大手のビルや公園内といった近所でも垣間見ることが可能です。
近代絵画を見ると、どこか感情が揺り動かせれます。ワクワクドキドキが起きます。クールモメンタムが刺激させられるのです。欧米の人の絵画へのアプローチはおそらくこの感覚によってクールモメンタムをリセットしたりリフレッシュすることが目的なのだと私は捉えています。
私は特に印象派が好きでよく観にいきます。特にポジティブ思考で「光の明るさ」に拘る「モネ」ややはりポジティブで「楽しさ」に身を置く「ルノアール」が好きです。時に刺激を求めるときは「闇」で病む叫びのような「ゴッホ」で極端な感情に触れる時もあります。
ともかくもこういった印象派の絵画を見ると、何となく心がスッキリして盛り上がってきます。クールモメンタムが活性化するのだと思います。
皆さんもこの連休中に、出来れば絵画展に赴くと何かを感じ取れるのではないかと思います。モノは試しにでも出掛けてみるのは如何でしょうか。絵画展でなくても自然に触れるのもいいと思います。大事なのは色に触れることです。まずは感じることです。そして思考を回遊させることです。サイエンスは直線です。アートは曲線です。日々ダイレクトに過ごす方々は、こういった機会に頭の中をワンダリングアラウンドすることが重要です。
そしてプチ・モメンタムとしては、好きな絵や写真、そしてフィギュアを含めた造形物を持って、それを眺めたり、それと対話することで認知を揺さぶることです。私はモネの「積み藁」を眺めたり、マチスの「ダンス」に見入ったり、岡本太郎の「太陽の塔」を見つめたり、大映の「大魔神」のフィギュアと語っています。
皆さん「書を捨てて街に出よう」です。是非積極的にアートの触れて、クールモメンタムを活性させてみて下さい。
それでは皆さん、次回も連休あけのソモサンも何卒よろしくお願い申しあげます。
さて皆さんは「ソモサン」?