マネジャーの最重要タスクは、『ポジティブへのパラダイム・シフト』~ソモサン第212回 ~
ショートソモサン①:ネガティブアプローチがフィットしていた時代を理解しなければポジティブシフトは起こらない
皆さんおはようございます。
前回「権力」という言葉の定義についてコメントをさせて頂きましたが、先だって出版社の方との打ち合わせ中に「やはり一般に権力という語彙はどうしてもマイナスイメージとして根付いているので他の言い回しの方が良いですね」という助言を頂き、今後は「勢力」に統一することにしました。
ところで先週のテレビで池上彰氏による毎度のニュース解説バラエティがやっていました。テーマは昭和からの変遷です。この年になると日常に埋もれて変化に鈍くなってしまうのですが、改めて随分と認知や慣習も変わったのだなと感慨させられました。
その中で生徒指導に関する一説があったのですが、私的に少々引っ掛かりがあったので、今回は少しそれに触れさせて頂こうかと考えています。解説の中で日本の学校教育が様変わりしたのは1958年の旧ソ連による有人飛行の成功が切っ掛けになっているという話がありました。それによっていわゆる西側諸国が焦りを抱き、教育のボリュームや難易度を一挙に引き上げたのが始まりだという話でした。それに煽りを掛けたのが戦後のベビーブームで1970年前後頃には大学受験者数の割合が受容者数を大きく上回る状態に膨れ上がり、1970年代末には何と40万の受け皿に対して70万人の応募者数に達していたということです。私はまさにその渦中の世代だったのですが、確かに「受験生ブルース」とか深夜ラジオとかを通して受験に焦燥した記憶はあっても、そこまでの状態とは思ってもいませんでした。テレビでは代ゼミの「日々是決戦」というスローガンや早稲田予備校の「13時間時計」が映し出されていましたが、私的には塾通い(当時私は駿台予備校に通っていました)の中での初めてのマクドナルド買い食い(フィレオフィッシュに感動していました)の様なほのぼのとした記憶の方が強い感じです。※その受験を軽視した呑気さが災いしたのか、せっかく入った大学を「ここではやりたいことが出来ない」などと放逐してしまい、結果その後の人生を低位させてしまいました。。結局は2つの大学を経緯するという珍しい人生になりましたが、日本の学歴主義には未だに閉口させられる境遇を作り出してしまったと内観するところです。まず持ってどの大学にいるかで異性からのモテ方が全然違う・・・これは本題ではないので、また稿を改めて。
さて、テレビではそういった過激な競争意識が厳しさを生んだという流れで、当時の教師の姿勢や態度、平たく云えば体罰や高圧さを映し出していたのですが、不思議だったのは単に映し出すだけで、出演者も「いやああの当時は厳しかった」とコメントするのみ。それだけで内容は終わってしまったのです。なぜ当時があのように「厳しい」で一掃されるようなネガティブ・アプローチだったのか、それが現在どのように変わったのかが一切言及されなかったのです。話題になったのは先の受験戦争の反省から「文部省(当時)」からの通達で「ゆとり教育」に転じたということ。そしてそれが学力低下を生み出し、またその反動で「詰め込み教育」が復活したこと。そして今また「ゆとり」に転じて「自ら考える教育」に方針が出されているということだけに触れられるのみで、指導の仕方やそのプロセスのあり方の良し悪し、またこれまでのネガティブ・アプローチが何を生み出したか、今後はどういう基本概念にならなければならないかなどは塵も論じられませんでした。
まあバラエティ番組だから、と言ってしまえばそれだけなのですが、これでは日本の人への関り方の在り様や特に勢力への見方や考え方、そして今後の展望は閉塞するばかりです。幾ら内容をゆとりにしても、教師の態度が相変わらず頻出する「ハラスメント」「いじりとか指導にすり替えているいじめ」によって悲劇を生み出すという風潮は改まりませんし、そういったネガティブな育成環境における閉塞が創造性を破壊し、未来への創造性を潰し続けているという問題はいつまでも解決しません。
私的にはグローバルに対応して日本が再び持ち前の創造力を回復し、改めて外洋に出帆するには、これまで当たり前とされていた日本特有のネガティブ・アプローチからパラダイム・シフトして、特に勢力への機微に対してポジティブ・アプローチをすることが第一義であると捉えています。
パラダイムとは「その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観」のことですが、シフトとはそれが「革命的にもしくは劇的に変化する」ことを云います。
ショートソモサン②:「我慢」は成功へのマイレージポイントなのか?
例えば、1970年代まではフォローウィンドを前提に「頑張れば結果が出る」という意識がマジョリティでした。そして頑張るという根性論を盾に逆境力が人間成長の主軸であり、それを鍛えるのはネガティブ・アプローチが重要であるという風潮が蔓延っていました。その代表が「獅子は子を千尋の谷に落とす」だとか「修羅場の経験こそが人を育てる」といった認識であり、不安とは「自分の内面にある弱さである」という考え方であって、それに染まっていた人が中心的な存在でした。こういった主勢力を「マジョリティ」と称します。
ですから、誰しもネガティブは嫌ですが、少数のそれを乗り越えた成功者は、自分を正当化すると同時に追憶に浸って、自らそのアプローチを繰り返すということが続いていました。「我慢」こそが最大の美徳であり、「我慢」は成功へのマイレージ・ポイントであるという思想が圧倒的だったわけです。また自分が教わったやり方しか分からず、心理的には引っかかっても結局は前例を踏襲したり、マジョリティ・パワーに対する集団忖度で変えられないといった流れも強くけん制力として働いていました。時には自分がやられたことへの恨み返しのように弱い者いじめの如く振舞う人もいました。
ここで重要なのは、それを許していた、或いは擁護していた周りの環境であり、それがマジョリティ・パワーの恐ろしいところと云えます。規律やその為の示しはある程度は大事です。しかしその盛り方を知らない者の無知蒙昧な振る舞いは害悪です。ゴムは伸びますが何処かで切れます。当たり前の話なのです。
この盛り方の度合いを知るか否かの別れ目が、その人の基調がポジティブ思考かネガティブ思考かです。世の中にやり過ぎという言葉はありません。アクセルとブレーキのバランスは始めからその人の意識のバランスで決せられているのです。最近のニュースで思うのは、不祥事を起こす人の背景を聞いて、「何故ああいうネガティブ意識な人に勢力を付与するのであろうか」ということです。例えば教師や組織の役職者の場合、能力より前に人格として教師や立場にして良い人悪い人は、意識すれば見分けられるものです。この理非分別がズレてきているのが今の日本の社会風潮の歪みの骨頂と云えましょう。その主因に1960年代から30年ほど続いた「エコノミック・アニマル」というパラダイムがあったのは間違いないところです。
その価値観を支えるパラダイムが徐々に変わったのが1980年代後半です。1980年代以降、ネット社会の本格的到来はグローバルレベルで国境を超えた競争時代の到来を現出しました。ビジネスは24時間体制で動き始め、シームレスなアジリティとして情報が行きかう世の中となりました。これは人の思考スピードをはるかに超える物事の動きが為される状況となったということを示唆しています。そしてそのことは民族や言語、性別といった違いを超えるパラダイム・シフトが輻輳するダイバシティにも拍車を掛けることにも繋がりました。
そのような背景の中で、日本は製造力ではBRICsなど第三勢力の台頭でコスト競争力で劣位となり、また技術開発力でも欧米に対して劣位となり、一挙に低成長期に突入したわけです。頑張ってもどうにもならない状態に落ちいったわけです。
また未来予測の複雑性も増し、目に見えた明るい未来や規定路線といった世界は消滅して、漠然とした暗澹たる印象が浮かび上がってくる世情に突入します。終身雇用や年功序列的な就労環境が却ってマイナスに働くようになり、賃金平均も1970年代の三分の二となり、正規雇用から臨時雇用が当たり前になりました。
そして経済的な制約から進学を諦めたり、子供を増やせないといった状況が生まれ、それが少子化を後押しして高齢化も相まって社会保障への不安が天井知らずの状態となってきたのが現代です。つまりは格差社会が歴然とした様相を見せ始め、「頑張ったからといって報われない」時代となったことを市民は十分に体感している状態になったわけです。「我慢したからといっても報われない時代となった」以上、「不安の要因は内面にある弱さとは限らない」というのは当然の意識です。自助努力では何ともならない所からくる不安は頑張りの活力にはならないし、現実の生活苦は創造性の喚起どころではありません。もはやそれが日本の基本的な風潮、マジョリティ状態になったわけです。
ショートソモサン③:どうしようもない不安に対するネガティブアプローチは精神を殺す
この事実は、ネガティブ・アプローチはネガティブなままに浸透し、越えられない逆境によって不安は更に加速して、精神的な障害レベルに至るような様相まで引き起こしています。まさにネガティブ・ストームが吹き荒れている状態と云えます。
しかし1980年以前でのマジョリティ的な教育によって認知育成された40代以上の多くは、以後年を重ねた年代になるに連れ、自らが教え育てられた体験からのアプローチしか分からず、そこに無意識的な自身の閉塞感的ネガティブ感情が加わった中で30代以下の若い人たちが接し続けています。ここを境に世代間でのパラダイム・シフトによる価値観ギャップが起きています。しかも本来は徐々に変容していくところが、日本では前パラダイム最後の時期にバブル問題が起き、その期を経験した世代は厳しさもなく閉塞感もないというお粗末な意識の人を多数社会に排出したために、それ以前の人とそれ以後の人との間に谷底の様な断層的ギャップを生み出してしまうことになりました。
そういった背景を軸にして、40代以上での価値観によるアプローチを強めれば強めるほど、30代以下は白け、モラルダウンを招くという悪循環が加速し始めました。特に40代以上で自分は過去のやり方で成功したと認識する人ほど、その乖離に拍車をかける結果を導き出すという悲劇が生まれている。30代以下の人たちとの間を調整する人材はバブル世代では圧倒的にいません。
このことは組織への忠誠心という心理にもマイナス影響を与えています。40代以上は組織が保障をしてくれ、組織が心理的安全性を確保してくれるエビデンスを持っていました。それがバブル期に組織や集団に存しなくても生きれるという(この時は甘い)風潮を生み出し、個人主義が台頭し始めました。そこにバブル崩壊や日本の国際競争力低下による経済低迷が、本当の意味で「自分を守るのは自分しかない」というニヒリズム的な個人主義を定着させました。そしてこの個人主義的な価値観が勢力への執着感を高める風潮も生み出しました。自分で自分を守るしかない以上は、とにかく社会の中で勢力を持たねばならない、と認知する
ともすればエゴイストに近い位の価値観を持つ人と反対に社会活動に全く関心を持たず、同時に無責任な人とを多排する状況を生み出しています。陰に隠れた格差社会を生み出し始めているわけです。そういった人たちが社会的責任感も持たず、個人主義(利己主義と区別がついていない)を前面にしてその閉塞感情をもってSNSなどで誹謗中傷したりを繰り返しています。いろいろな角度でネガティブな感情がうねりをもって悪循環する状態に陥っている。それが現代の闇の実態だと私は見ています。
ショートソモサン④:今のマネジメント層へ「かかわり方を変えてみよう~エンパワーメントの実践技術~」
このブログは主に40代以上のマネジャーの方々を照準にして書いています。だからこそ、40代以上の皆さん。そう、あなたの考えやアプローチでは30代以下はやる気をなくし、離れるか潰れる一方だということを内観してみてください。そして職場内には鬱が蔓延し、退職者が続出するのは彼ら自身の問題ではなく、厳然と勢力を有しているあなたのアプローチに元凶があるという実態も見つめてみてください。もはやあなた方は社会風潮のマジョリティではないわけです。マイノリティが勢力をもってマジョリティを圧するとどうなるか。火を見るに明らかです。若い人の価値観が大勢であるという現実を直視してマネジメントをしていくことがブレーク・スルーする唯一の道です。
40代以上の方々のパラダイム・シフトを期するところです。そしてポジティブ・マネジメントの実践をお願いしたいと思います。
例えば、勢力という影響力の行使における日常的なポジティブ・マネジメントのやり方としては、エンパワー・マネジメントというアプローチがあります。
エンパワーとは正式にはエンパワーメントと云います。一般的には、個人や集団が自らの生活への勢力源を獲得し、組織的、社会的、構造的に影響を与えれるように勢力を付加したり貸与したり委譲することであると定義されています。権限付与、権限委譲、自信付与、強化、湧活と表する場合もあります。エンパワメント(湧活)は、人びとに夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っているすばらしい、生きる力を湧き出させることとも解されています。
エンパワーメントは単なる能力強化ではありません。またたんに個人や集団の自立を促すことでもありません。エンパワーは人間が生来持っている潜在能力の発揮を可能にするよう平等で公平な勢力発揮の条件を作ることです。
具体的には、勢力ある人や集団合意が、
- 声掛けする
- フレンドリーに接する
- 他に権威づける
- 権威ある場に列席させる
- 承認する
- 称賛する
- 報奨する
- 後見する
- 権限付与する
- 権限委譲する
- 抜擢する
といった意識的な動き(特に演出する動き)で、対象となる人や集団の影響力を高めさせる働きを行うことです。
さて次回はポジティブ・マネジャーのエンジンである「モメンタム」についての現在進行形の情報提供をしていきたいと思っています。
次回も何卒よろしくお願い申し上げます。
このモメンタムへの取り組みの流れでブログの内容を今後はもう少し短く、また専務の申しつけによってより多くの人に読んで頂くためにもう少し文章を平易にしていく所存です。
併せて何卒よろしくお願い申し上げます。
さて皆さんは「ソモサン」?