認知相違における論理面の裏側に潜む本質にアプローチする

認知相違が引き起こす対人間の様々な問題は、
・相違自体がもたらすもの
と
・相違は前提としながらその相違を取り扱う際におこるもの
があるという話は以前にもしましたが、実はこのどう取り扱うか自体が一番難儀な問題になります。
どう取り扱うには、どう受け止めるかとどう捌(さば)くかの二つの世界があります。
最も単純かつ明解なのは、認知に対する内容を事実かつ証拠ベースで検証し、科学としての社会的な論理や相手の認知と照合した上でお互いに検証して是正したり握ったりして歩み寄ることです。
ところでセミナーなどで自分が有する認知相違に対する問題はどのレベルかという質問をすると、上記のような単純なものをあげる人が多いのですが、これがまた認知相違の真骨頂で、個別にその内容を具体的に掘り下げると、大多数がそれ以外の要素で認知相違の受け止め方の段階から当該認知を拗(ねじ)れさせて、それが問題解決を遠ざけていることが浮き彫りになってきます。
浅慮な物の見方や考え方しか出来ない短絡思考の場合もありますが、自分が抱える認知相違問題は論理的な食い違いレベルだと思いたいという防衛機制やスキーマ的なバイアス、それに伴う感情反応といった無自覚な意思によって見込み違いを引き起こしている場合が非常に多いわけです。まさにアンコンシャス・バイアスです。
例えばいわゆる単なる意見の食い違いという話があります。
本当にそうならばきちんとお互いの意見を出し合って、相互に情報を共有すればどこかで噛み合わせることができる筈です。ところがどこまで行っても平行線という場合があります。
その場合、そこで起きている認知相違はあくまでも俎上に乗った論題であって、実はその伏線にもっと大きくて深いレベルの認知相違が存在しています。
にもかかわらずどちらか或いはお互いの無意識にその根っこから目を背けたいという防衛機制が働く、または信念レベルに食い込んで疑問すら湧かないという心根があって、それを隠蔽した中で表層的で派生的なレベルの認知相違を調整をしようとするが故にいつまで経っても話が噛み合わないという状況が伺えるわけです。
これは精神的な殺人である ~部活動パワハラのケースに見る認知相違の影響~
昨今話題になる年齢差による考え方の違いに関わる問題などはその好例です。こういうケースがありました。
沖縄の県立高校である部活の主将だった男子生徒が自ら命を絶ったという痛ましい事件がありました。
その事件を調査すると、部活の顧問から夜間に何度もLINEを使った着信履歴が残されていて、その内容として主将である生徒に対して「キャプテンやめろ」「部活をやめろ」などと強い言葉で叱責していたものだったということが判明したのです。
県の教育委員会は生徒への連絡に私用の携帯やメールの使用を禁じていたのですが、徹底されていなかったようです。そして当該生徒は先生からの連絡なので「すぐに出ないと怒られるから」と自宅にいる時も常に耳にイヤホンをして着信に備えていたということも発覚したとのこと。
遺族によると、生徒は2年生になると食が細くなり、食後に吐くこともあり、体重は数キロ減ったそうで、母親は「生徒たちを褒めて育てて」と顧問に何度も申し入れたが、顧問は「彼らはすぐに調子に乗るから」などと聞き入れなかったという話だったようです。
県教委は「自殺の要因は部活動顧問との関係を中心としたストレスの可能性が高い」とする第三者調査チームの報告書を公表しました。そして夜中まで続くLINEでの顧問とのやりとりなどが生徒のストレスの要因であることを挙げたそうです。
驚くことに報告書によると、顧問が生徒に向けて送ったメッセージを削除していたことも判明しているそうです。
問題は、この顧問が事実関係を否定しているという話です。厳しくしたのはこの子だけではない、といっているのだそうです。真実がどこにあるかはわかりませんが、顧問が反省していないことだけは確かなようです。
人一人死んでいるのに何故そんな姿勢を示すのでしょうか。果たして防衛機制でしょうか。
ここで一つ考えられることがあります。この顧問は生活というか、人生、生き甲斐のすべてが部活の指導や部の成績だったのかもしれないということです。
こういう人は本当に何の悪気も無く、むしろこの生徒のため、部のためということを本気で思い込んで、そしていくら厳しく指導しても根本では我々は強い信頼関係があると、彼らが卒業して社会に出た後、この経験は必ず活きてくると恐ろしい位に信じ込んでいた可能性があるということです。
報道によると、顧問は第一報を聞いたとき耳を疑ったそうです。そしてパワハラの事実を否定したそうです。恐らくは顧問自身に自覚がないからこそ、最初の一報に対して「えっ?何で?どうして?」というとんでもないリアクションを取ったのだろうということが予測されるわけです。
またどうやらこの主将は推薦で入ったそうです。それ故に辞められないと思い、追い込まれてしまったのかもしれません。
また母親も事実をある程度把握していながら強く顧問に訴えていません。これも推薦に対する引け目かもしれません。明らかに指導の域を超えていたと見ていても、 本人が「大丈夫」といっていたら、不安でも信じるしかないと思ってしまうかもしれません。高校生くらいだと、どこまで親が踏み込んでいいのかも躊躇するところです。
このケースの場合、明らかにお互いの関係に対する認知に相違があります。起きている事象はパワハラによる精神的な殺人です。ところが顧問はそれが理解できていません。自分は良かれと思ってやったのに何故そういう受け止め方になるのだ、といった心理状況です。
片方は信頼があると認知していたのに、相手はそうではなかった。むしろ嫌がっていた可能性もある、といった話ですが、こういった話は男女間でも組織内の上下間でも良くある話です。
一見すると十代の若者のルーズさやナイーブさとそれを経験的に知る指導者の間で起きがちな葛藤関係です。こういった話は全国でも、特に体育会系的には頻発する内容と云えます。ですからそういったレベルで、しかも指導者側から見れば
「この生徒が弱かった、これまでもそうだが死ぬまでの話でもないという中での稀なケースだ」
「きちんと話せば分かる話だったのに、まだ自分の思いがきちんと伝わっていない」
といった程度の問題意識で過ぎ去ってしまいがちになります。確かに多少は厳しくしなければ規律が乱れる場合もあるともいえます。だからか、指導者同様に母親も心配ながらもそこまで深刻な話だとは思ってもみなかったのかもしれません。
さてではこのケースは上記のような双方の表層的な理解不足や状況への認知の違いから出た話でしょうか。それとも本当に生徒の方の弱さが原因での偶々(たまたま)で起きた話でしょうか。それを理由にここで顧問を叩くのは簡単なことです。
そうSNSの誹謗中傷などはこのレベルの浅はかな連中が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するところといえます。
でもここで皆さん、自身を振り返ってみてください。一般に人に影響する生業の指導者ならば、少しでも人に関心があるならば、彼の体重が数キロ減り、しかも母親から「褒めて育てて」と何度も申し入れがあったならば、何か違和感を感じなかったのでしょうか。
社会環境による根底的な認知相違 ~失敗しても・・・・ 次もある or 次はない~
実はこういった話は自殺までは行かずとも全国で尽きることがありません。にもかかわらず一向に是正される兆しが表れてきません。ここに認知相違の深度が持つ本当の怖さが潜んでいます。
一つの要因は社会的な育成環境です。
平成から令和に至る社会風潮は、先行き不透明感や相次ぐ不況というネガティブ環境の中で、人の心の基調はマイナスに傾いています。多少頑張ってみたところで明るい未来は期待できません。
悲壮感が前提で、その為ちょっとしたことでも落ち込んだり、自信喪失に繋がる心理が常態となっています。ですから巷では暗黙裡にポジティブアップやプラス思考が喧伝されているのが風潮になっています。
また当該生徒に限って云えば、母親の腕一本で育てられ、母性特有の優しさが心の基軸であり、また母親に迷惑をかけてはならないとか母親を楽させたいというのが頑張る原動力になっていた可能性があります。
そういった中での推薦入学と云うのはもう後には引けない、逃げるわけにはいかないという緊張状態での日々だったということが予想できます。しかも主将です。その責任意識は絶大だったと思われます。
そのような心にゆとりがない中での顧問のメッセージは、まさに脅しであり、拷問に近いものがあったと推察されます。母親にも本音がはけません。大人はみんな敵。彼にとっての最終的な心の救いは死だったのでしょう。
顧問は強い思い込みを背景に、自分の思い通りにならないことを感情的な発露で発散してきます。経緯を見る限りですが、ひょっとして思考力も乏しい人であるようにも伺えます。
そういった一切の論理が通用しない状況の中での人の反応は悲鳴ともいえる感情の露出、思考の停止しかありません。発狂やウツのような内的発露や無差別殺人や窃盗、万引きのような外的発露もこの現象の一つです。そして彼は頭が回らない中で最悪の選択をしてしまったのです。
そう認知相違は単純に話せば分かるといった単線的で論理ベースの事象は稀です。もっと感情も混ざった複線、混戦的な事象が一般です。
このケースでは典型的な昭和が絡んだ年代差の認知相違も含まれています。先に平成令和を上げましたが、昭和はその真逆の時代と云えます。戦前と戦後では全く異なる様相ですが、戦後の昭和とは右肩上がりの成長が延々と続く未来が見通せる中でのポジティブ基調の時代だったと云えます。
この未来予測が出来るというのは非常に大きい要素です。人間は自分の将来が見通せるような目標が持てる条件下ではよほどの艱難辛苦にも耐えられる心の強さを持ちえます。この時代は楽観が前提で、 多くの人はどんなに打たれようとも叩かれようとも凌げるエネルギーが沸き立っています。
そのような条件下で一定の成功体験やヒューリスティックを身に着けるとそれが前提の価値観が形成されます。これは組織の様な場面で階層的に体験すればするほど累乗化されていきます。
体育会系はその顕著な場所と云えます。そしてその価値観が原体験的であればあるほど内的に修正が効き辛くなり、アンチに対して感情的になります。それが募れば募るほど感情の起伏は激化することになります。
まさに昭和と平成・令和は環境的背景が真逆であることに比例して基準となる価値観も真逆です。昭和の価値観で指導される平成・令和世代は、その発想だけで辟易(へきえき)するのが実状です。
そこに昭和は老齢的な思考の固定化が加わりますから手に負えない状態となります。ちょうど認知症の方が思考力の低下とともに感情的になるのと同様の反応が頻出し始めます。
母親もこの昭和根性が暴虐的に機動しているなどとは露とも思わなかったでしょう。古き良き昭和の価値観を信じていた面もあったと思います。だから強くは出なかったのではないでしょうか。
権力構造が生み出す政治力学が論理を駆逐する
更にここに体育会系の場合は、特に組織の上下間系といった上位下達的な階層権力構造が働きます。主将ともなれば板挟みです。先輩後輩とかある種暴力的な支配―被支配関係が横行するのが未だ是正されていません。日本は集団主義思想の中でこの意識が際立つ社会でもあります。
そのような中で顧問に口答えなど出来ようもありません。まして推薦入学と云った人質的縛りがあればなおさらです。主将は高校生ながらにも政治的に反応したとも思われます。ますます追い込まれる状況です。
彼にはまだ忖度や迎合以外の、意図的立ち回りや操作的な反応が出来るほどの器用さは身についていなかったでしょう。
この顧問がどこまでそうであったかは分かりませんが、マウンティングが好きなタイプの人の中には、自分の意見で人を支配すること自体を目的にする人がいます。彼らは口では相手のためと言いつつ、自らの支配欲を満足させるために、わざと相手が右往左往するような言動を繰り返します。
彼らの多くは狭い世界で強権的に振る舞い、上には媚び、下には高圧的、そして半洗脳的に飴と鞭を使い分けて自分を中心とした小さなピラミッドを作ることを好みます。もしも顧問がこういうタイプでもあったらまさにその場は地獄だったと思います。
どうですか皆さん、認知相違とはこのような深層心理が絡み、主に論理よりも先に欲求や感情への対応が主となる世界へのアプローチなのです。
組織の非生産性を引き起こす2側面は、「頭が良い奴がいがみ合う」か「頭の悪い奴がなれ合う」状態です。何れもそこで大きく立ち塞がってくるのは、人の持つ感情の絡みです。
感情で認知は歪められ、感情で認知の調整は阻害されます。そして感情が論理を駆逐するのが政治力学です。
幾ら論理を強化しても、論理にアプローチしても多くの問題が解決しない、寧ろ隘路に嵌まるのは、本質から目を背けるからです。
貴方の組織は如何でしょうか。
さて、皆さんは「ソモサン」?