森元総理大臣の舌禍事件にみる無自覚的偏見と認知相違を考える①

今話題の事例に「認知相違」とその複雑性を垣間見る
今回はまたまた事例によって認知相違、特にアンコンシャス・バイアス(無自覚的偏見)という心性が引き起こす社会問題を取り上げてみましょう。これだけ顕著な事例があるのに今取り上げなくてどうする、といった事例です。
大半の方々が想起する旬な話題、そう「今月3日のJOC臨時評議員会で元総理大臣だった森会長が行った女性を巡る発言が引き起こした波紋」という話です。
曰く「これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは文科省がうるさく言うんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますが、ラグビー協会は今までの倍時間がかかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた(笑)、5人います」というのが内容です。
状況的には公式の発言ではなく、会見の後での談話のようなもので、本人的には軽い冗談話のつもりだったのかもしれません。
しかし「女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口を書かれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります」といった下りになってきますと早々冗談では済まされない火の粉のまき散らし状態となっています。
本人も行き過ぎと自認したのか、「私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした、的を得た、そういうのが集約されて非常にわれわれ役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです」と加えましたが、もはや後の祭りです。
後のてんやわんやの世界レベルでの大騒ぎは皆さんもよくご存じの次第です。
あちらこちらで素人の騒ぎ屋が騒がしい中で、その道の権威者のような方も今回は強く批判の嵐をしていらっしゃいます。中にはその方自身が認知相違の主因であるアンコンシャス・バイアスの塊のような状況も見て取れる在り様です。海外に及んでは「これが日本人だ」とばかりの民族差別を口にする教養人も頻出しています。
今回はこの騒ぎを事例に、そこに潜む認知相違とその複雑性について紐解いていこうといます。
「認知相違」に潜むジェンダー問題
まず明確なのは、「女性 vs 男性」というジェンダーの問題です。最近LGBTQが注目されてきていますが、根幹に潜むのが男尊女卑思想にあるのは周知の話です。
男尊女卑というのは女性蔑視といった男性に問題があるといった単純な構図ではありません。最近では女性が男性にセクハラをするという事象もあったりします。
また意識として男性が女性にやったら騒がれる行為が、女性が男性にやっても容認されるという類のこともちょくちょく目にしますが、こういったこともその根っこに男女差別が潜んでいるということを見逃がしてはいけません。
差別はどちらか一方ではなく、双方が共に平等とは何かをしっかりと認識したうえで握っていかなければならない問題なのです。男性も意識差をなくす必要があるわけですが、女性も意識差をなくさなくては、平等は成り立ちません。
先般ある評論家が同時に番組に出演していて対話をする中で、男尊女卑が話題になり、女性の政界進出という話について「女性の政治家のイメージが一般の方々に二の足を踏ませる面がある。貴方も気を付けなければ」と個人に向けての発言をしたところ、脇の女性アナウンサーがいきなりいきり立って「貴方のそういう見方が差別なんだ」と言い始めたシーンがありました。
それがまたネットでも評論家への誹謗中傷コメントに沸き立ったのですが、私的にはその相手の方が何にでも噛みついて相手を下品に攻撃するイメージがある方で、評論家は女性というよりもその方を指して発言したのであり、その女性アナウンサーの意識の方こそ問題があるように映りました。面白いのはその女性アナウンサーに同調して女性政治家も評論家に対論していましたが、その政治家の方は理解していたようで、いつもの舌鋒でなかったのが印象的でした。
確かに今の日本は女性の比率をみると、上場企業の社長は1%(41社)、東京大学の学生は19%、国会議員は衆議院で10%、参議院で20%となっており、圧倒的な男性社会なのは確かなので手を打つ必要は間違いなくあるでしょう。
私がよく行くJAという農業団体の理事や管理職の構成など話にもなりません。女性部会という組織が最も貢献しているにもかかわらずです。実はこの辺りに認知相違で生じてくる問題の解決が短絡的でないという真因が隠れているのです。
それは高度成長という戦後の日本が成功体験とした意識、そこで作り出された「昭和」という名で括られた複数のアンコンシャス・バイアス(無自覚的偏見)です。
今回の場合はその一角を担っている男性優位という認知様式が浮き彫りにされたわけで、昭和というアンコンシャス・バイアスは複数が交差して存在していますから、そこだけを焦点に問題解決を図っても「暖簾に腕押し」に陥るのは必定と云えます。
「昭和」的感覚にはいくつかのアンコンシャス・バイアスが絡んでいる
では昭和に含まれる他のアンコンシャス・バイアスとは何でしょうか。それは集団主義的な村社会による内部(身内)の論理優先、そこからくる年功序列や終身雇用による長老支配、そしてそこと密接に繋がる論理よりも義理人情優先といった時代錯誤です。
そして、そこに承認や権力と云った感覚的欲求に基づいた心理的バイアスが交差してきますから相違の様相は立体的になってきます。
森さんは一連の騒動の末に辞任することになりましたが、最後の挨拶に至るまで起きていることのポイントが理解できていませんでした。曰く「自分としては女性蔑視というつもりで言ったわけではない」「ただ老害と云われるのは不快である」と。
私的には最初の失言は素直に謝罪していれば辞任までの話ではなかったと思います。問題は謝罪会見の時に逆切れしてマスコミにややケンカを売ったような態度に出てしまったことです。
これで社会は彼が反省していないと認知してしまいました。でも残念なのは最後の会見のように最後までことの意味が理解できないということです。ですから老害という言われ方に関してもズレが生じてしまっています。
今社会が森さんを老害と云っているのは「悪意」というよりも「同情」と云えます。もはや何を言っても理解できない老齢者特有の妄執(もうしゅう)的な思考にハマってしまっているということです。
老害とは市井(しせい)の人々の皮膚感覚とは遊離されてしまった無自覚的偏見によって柔軟な対応が出来なくなるという意味で使われます。これは認知症のような知能力低下の話ではなく、想念の固定化による時代の流れとのズレという話なのです。
森さんが云われているのは、「老害だから問題だ」ではなく、「森さんのような状態を老害と云うのだ」ということです。
時にポピュリズム的な思考レベルの人がいて、それが訳知り顔にネット暴力をするのも確かにあります。しかし果たして「老害」が国政の中枢に居座っているから、この国はどんどん悪くなっているのでしょうか。加齢して老人になったから舌禍や批判に値する言動を繰り返すのでしょうか。老人になると政治家は皆、傲慢になったり、権威的になったり、市井の市民感覚からどんどんと遊離していくのでしょうか。
「老害」と称されるような人は、壮年期であっても、青年期であっても存在しています。老害的な人は、実は老人であるか否かは関係が無く元々「そういう人」だったという話です。
「三つ子の魂百まで」という諺ではないですが、森さんは2000年に62歳で急遽総理大臣になった時から「神の国発言」や「(無党派層は)寝ていてくれればいい」という失言をしています。
森さんは戦前的なイデオロギーや世界観を根強く持った人であり、それがそのまま加齢しても修正されずに残存した生き残りの一人なのでしょう。
今回同時にやり玉となった二階さんも2018年の幹事長時代に「戦中、戦後の食うや食わずの時代も子どもを産んだら大変だから産まないようにしようと言った人はいない。この頃子どもを産まない方が幸せじゃないかと勝手なことを考える人がいる」と発言して国内外で大きな問題になりました。
二階さんは戦後世代で、皮膚感覚として戦中の事はよく分からないはずですが、和歌山でそういう教育を受けたのでしょう。二階さんもまた加齢したから権威的になったのではなく、元々こういう価値観を持った政治家だったと言えるでしょう。
他にも麻生さんの街頭での「下々の皆さん」という失言を始めとして色んな方がいらっしゃいますが、麻生さんの失言を含めて失言する人たちは青年期からであり、加齢したからではありません。また権力者になったから形成されたわけでもありません。
彼らは「もともと」地金として心中にそういった自意識を持っているからそれが口に出てしまうのだと言えます。
最近の若手だと杉田水脈代議士による「LGBTに生産性は無い」寄稿や「女性は嘘をつく」発言があります。
こういった例を見る限り、 失言の背景にある市井の市民感覚からどんどんと遊離していく傲慢さや封建的で権威的な政党政治家の感覚というのが、「老人・老害」ゆえだからではなく、まずは「もともと」そういった感性や価値観(地金)を持った人がいて、そういった人がそのまま政党の重鎮になっていったということに由来しているという現実を浮き彫りにしてきます。
そう、封建的・権威的体質に基づいた失言に繋がる本質として、実は単に政治家個人の加齢や高齢化に起因するのではなく、或いは個人的な属性にだけ由来するのではなく、それを助長させる背景たる組織や社会があるという事実を見逃してはいけません。
そうでないと仮に森さんや二階さんや麻生さんを権威の中枢から除去しても、問題の本質はなくならず、同様なことを今後も頻発させて、早晩グローバル社会からレッドカードを突き付けられることになることは間違いのないことです。そうするとあらゆる交渉事も不利になっていくことでしょう。
アンコンシャス(無自覚)たる背景には社会の体質も影響している
アンコンシャス・バイアスはアンコンシャス(無自覚)ということが最重要ポイントです。何故アンコンシャスなのかということです。それは森さんたちが元々偏見を持っていたとして、それが許させる環境が偏見を無自覚な領域まで推し進めてしまったということにあります。
今回の森さんの場合、オリンピックという世界大会において、男女平等が大会理念であるにもかかわらず日本代表として軽口をせしめてしまった安易さ、不用心さ、無自覚さは単に軽薄だけでは済まされません。
未だ本人に罪意識は少なく、そこにまた別なアンコンシャス・バイアスが加わって、内々的に川渕さんに禅譲(ぜんじょう)しようとしたり、相談役的に居残ろうとしたりするのは、悪意や権力意識というよりも責任感の現れと見えもしますが、この行為自体が失言同様に市井の市民感覚から遊離しているということに判断が及んでいません。
これこそまさに純然たるアンコンシャス・バイアスの真骨頂です。
皆さんも経験していると思いますが、人は環境に順化して生活しています。生活様式や価値観など心理行動のほとんどは所属する組織や社会の慣習やしきたり、価値観に浸り染まり、ほぼ無意識的に反応して思考判断をしています。
日本人が日本人たる所以であったり、会社人が会社人たる所以でもあったります。いちいち慣れ親しんだ事象を想起することなどありません。また集団社会ではその様式に最も順化した人がそこで最も力を持つというような側面を持っています。ここにアンコンシャス・バイアスの温床があるわけです。
今回の場合日本の政党政治の中でも特に長く、それこそ戦前から続く保守政党として醸成された村社会的内部の論理優先によって強固に有された「組織体質(集団思考)」としてのアンコンシャス・バイアスが大きく裏目に出てしまった事例と言えるでしょう。森さんたちはそこでの成功者だったからこそ今もって何が悪かったのか分からないのだということは悲しい話と云えます。
この村社会的な集団意識構造は更に年功主義を生み出します。高度成長とは環境自体が上り坂ということで、ある意味誰が舵を切っても同じ結果、それもプラスになるといった状況です。
その中では能力差は埋もれてしまい、生産性の判断基準が無くなってしまいます。その為実力よりも入社時点での学歴や年功が評価の軸となってしまいがちです。それが40年以上続いた稀有な状態だったのが日本です。40年は長いです。
大卒22歳で入社してちょうど定年という長さです。そこでの価値観が全ての規範になるのは当然です。変化の乏しい社会や組織ほどその傾向は濃厚になります。企業でいえば大企業病の真因です。
さてこのことは、一党一強によって営まれた日本の政党政治において顕著です。その政党の中で作られた価値観や規範形成こそが今回の問題の根本に潜んでいることは間違いのないところです。その集団的なアンコンシャス・バイアスこそが森さんをはじめとして政党内の幹部陣が同じような失言をしてしまう根幹にあるわけです。
但し、今回の問題は政党内の規範文化に留まりません。この一件はその保守政党を戦後延々と政権与党の座に選出し続けた保守的な有権者一部の写し鏡ともいえるからです。つまりここで問題となる無自覚偏見のおおもとは、日本社会そのものに未だ残る封建的体質の残滓(ざんし)ともいえるわけです。
この辺りこそが今フランスのルモンド紙とか世界のジャーナリズムが戒めを提言するいわれでしょう。ただルモンドは自国がやっているアジア人差別などの人種問題にはほっかむりをしているのは気になるところですが。
長くなりました。今回はこの辺りで終わることにします。次回は村社会的な身内の論理が生み出すアンコンシャス・バイアスの火種の続きとして、今度は終身雇用や年功序列が生み出した長老支配による火種について話をしていきたいと思います。
皆さんの組織では今回の様なアンコンシャス・バイアスが生み出す認知相違問題はありませんか。
さて、皆さんは「ソモサン」?