日本人独特の集団主義思考による弊害が、創造性を破壊し、改革を挫滅させている

先週はマスコミの稚拙化についてコメントをしたのですが、「踊る阿呆に見る阿呆」といったところで、今回はそれに乗せられる現代の日本の大衆についてバイアス的な切り口でコメントしたいと思います。今回はダイアモンド社の窪田順生氏によるネットコラムの内容が得心でしたので、その内容をベースに私なりにアンコンシャスバイアス的な解釈を施した上で展開します。商用も悪用もしませんので今回だけはお見逃しください(笑)。
最近のマスコミのやらかすバッシングは筆者の妬みや嫉みかという如くの感情的な節操のなさですが、特に芸能界の売れっ子に対するそれは目に余る感があります。そしてその扇動に対する大衆の反応も異常なものを感じます。良心を無くした感のあるメディアからすれば単純に「数字が取れる」といった下賤さでしょうが、それに対する反応としては、常軌を逸しているように思えます。「やった内容がひどいから」という理由だけでは説明できない浅慮さがみえてきます。
これには集団主義による日本人が幼い頃から当然のように受けているアンコンシャスバイアスが影響している様に私は見ています。それは「自分勝手に振る舞うな」という洗脳に近い初期設定的な教育弊害です。自分とは無関係なのに芸能人の過ちを、それこそ自分は棚に上げて徹底的にバッシングするというこの異様な現象の背景には初期設定されたバイアスが深く影響しているということです。
例えば不倫問題ですが、「奥さんがかわいそうだ」と被害者的な立場の人をヒーローやヒロインのように扱って奉ります。本当に「かわいそうだ」というのなら、当事者たちの問題なのだから、部外者的には「そっとしておくのが道理」だと思います。また夫婦の間は両者の関係性の中で問題が生じますから、あながち原因が一方だけにあるとは限りません。日常ストレスを浴びせられた歪みが横道に走るきっかけになっていたかもしれないわけです。本当に一方がかわいそうなのかどうかは外からでは分からない点が多いのです。
ですから一旦は騒いでも、当人たちが平穏な日々を取り戻すために執拗に追い込むのではなくて、さっさと沈静化すべきなのが人間の品格というものです。しかしメディアはしつこく断罪し続けます。なぜ被害者である(或いは真の発起人側である)はずの側の人たちのダメージを一切考慮せず、このような過熱が起きるかというと、メディア側は出版部数が減り続ける現状への利己的な都合で、ただただ数字のみが欲しいからなのでしょう。これがデススパイラルになるとも思わずに浅慮に目先への自転車操業に追われているのが現状と云えます。
加害者側が如何に悪人かと、あげつらえばあげつらうほど部数が伸び、視聴率が上がり、アクセス数が上がるのが現実だからです。ユーチューバーなども金に繋がる再生回数欲しさに、どんどん過激な動画を作っていくという実態も同様の病巣と云えるでしょう。
それにしてもこのような展開はかなり日本独特だと思います。西洋、例えばハリウッドでは、差別発言をして降板させられることはあっても、不倫で仕事を失うことはまずありません。そのことについて本人や彼らを代表する人がコメントすることも基本的にはありませんし、ましてや謝罪会見をするなどありえません。ゴシップ紙が騒ぎ立ててもそれはそれ。仕事に関しては通常営業です。「プライベートなことは絶対に聞かないように」というお達しが強くなるくらいで映画の宣伝活動も予定どおり決行されることが殆どです。
日本の一部では「好感度が売りだったから批判されるのだ」「よき人、優しい人というイメージが崩壊してしまった」という声もありますが、ハリウッドではそれも関係ありません。アメリカのスイートハートと呼ばれたメグ・ライアンはデニス・クエイドと結婚していましたが、映画の共演を機にラッセル・クロウと不倫してそれが発覚し結果的にクエイドと離婚しています。でも映画の公開時にはライアンもクロウも堂々と映画のプロモーションに出てきていました。その1年後ライアンは『ニューヨークの恋人』でまたもやラブコメ女王ぶりを発揮して変わらぬ人気を見せつけていました。
ジュリア・ロバーツも、現在の夫ダニー・モダーとは彼が既婚者だった時の映画の撮影中に恋愛関係になっています。この新たな恋についての報道では「ジュリア・ロバーツが不倫」などという形でそこが強調されることはありませんでしたし、ロバーツも悪びれませんでした。それどころか、彼女はモダーの妻がなかなか離婚に応じないことにしびれを切らし「Low Vera」(下劣なヴェラ)と書いたTシャツを着て街を歩いたりもしています。
そもそも基本として西洋では、一方が既婚者だったというだけではメジャーなニュースにはならないのです。アンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピットの時にだって、既婚者だったピットを「ひどい男だ」と責めるような風潮はありませんでした。アーノルド・シュワルツェネッガーやデミ・ムーアは自伝本で過去の不倫を告白しざんげしていますが、それはあくまで彼らが自分で決めたことで、やらないならやらないでよかったことなわけです。聞く側にしても本人が言いたいなら耳を傾けるし、言いたくないなら聞かないで良いといった捉え方が普通です。
彼らの認識からすれば、そもそもこういった問題は社会的に影響を与える問題ではないわけです。もちろん視聴者には「不倫はけしからん、あいつの番組は見ない」という権利はあるのでしょうが、そう言われるからといって仕事をわざわざ「自粛」する必要はないとみるのが世界の大半を占める個人主義の彼らの価値観なのです。確かに実際不倫はけしからんことでしょう。しかし謝るべき相手は視聴者ではありません。プライベートで間違いを犯した当事者には、あくまでプライベートな形で反省してもらえばいいのではないかと、西洋をはじめとする日本以外の国の人は常識的に考えるのです。
でも、日本人はどうしてこうも芸能人の様な有名人の「公開処刑」を見たがるのでしょうか。先にも言いましたが、勧善懲悪が好みの日本人の特性に基づいて「悪人が筋書き通りに成敗された」みたいな自己高揚感がその本心であるという方もいらっしゃるかもしれません。そして時にはそのイメージの崩壊的なギャップが怒りを煽ってる場合もあることも確かなようです。
しかし考えるに、メディアで触れる程度で日常会ったことも話したこともない他人の人生にここまで集中して感情移入や介入心が生まれるのは、もっと別の理由があるのではないでしょうか。
これを私は「自分勝手な振る舞いをする者は社会全体で制裁をしてもよろしい」という日本人的な集団主義に根差したバイアスに疑問も持たない国民的な初期設定教育の弊害だとみています。これこそ原体験教育というフロイトの言う「スーパーエゴ」的な良心に基づいたバイアスがもたらす異常行動の露呈とみるのです。
そう、集団主義が基調の日本人は世界の中でも有数の「個人自由主義(個人の勝手な行動)」に対して厳しい国民で、この他人の振る舞いに対する異常な執着心こそが「集団行動的な秩序を乱した」と捉えた人への常軌を逸したバッシングに繋がっており、更にその影響力が強いと見られる有名人に対しての粛清圧力の高まりになっているのが実際のところではないでしょうか。
日本は政府の若者の意識調査でも、諸外国に比べて「社会規範(他人に迷惑をかけなければ、何をしようと個人の自由)」という質問に対して、「そう思わない」「どちらかといえばそう思わない」と回答した若者が49.4%と、若者の半分が「他人に迷惑をかけなくても自分勝手な振る舞いは自重すべきだ」と感じている国民だそうです。因みに隣の韓国で20.7%、ドイツで21%、アメリカで15.8%、フランスで15.2%という順になっています。世界では「他人に迷惑をかけなければ何をしようと俺の勝手」という若者がメジャーなのに対して、日本では「いかなる理由があっても自分勝手な振る舞いは許されない」と考えている若者が圧倒的に多いわけです。
日本の教育システムや社会システムは戦前からほとんど変わっていませんから、この若者の特徴は彼らの親世代、祖父母世代から脈々と受け継がれてきたと云っても過言ではないでしょう。
不倫などは基本的には当事者間の問題であって他人に迷惑がかかるような話ではありません。当事者同士で解決すればいい話です、外野がああだこうだと口を挟むような話でもありません。ですから海外では第三者が狂ったように、それも人の人格を総否定するようなバイアス的バッシングなどはしません。
しかし幼い頃から「自分勝手な行為をしてはいけない」と叩き込まれてきた日本人にはそういう理屈が通用しないわけです。
「私たちはこんなにも我慢をして生きているのに、本能の赴くままに不倫なんかする奴は許せない」といった「個人の勝手な行動」への強烈な嫌悪感が、そのまま有名人への人格攻撃につながっているわけです。
有名人だけでなく少しでも社会的風潮に異論を呈したり配慮を欠いたりした言葉を口にした人は、“ネット探偵”が身元を特定して、顔も見たこともない人々から誹謗中傷の嵐にさらされます。この国では、「個人の勝手な行動」は万死に値するわけです。そしてこのような傾向は社会がギスギスして余裕がなくなるとさらに強まります。
そうなると「勝手ではなく、少しでも集団行動を逸れているように映る行動」まで屁理屈で悪人化させ、自己正当の如くバッシングやいじめを行い始めるのです。日本人は「他人に迷惑をかけなくとも、個人の勝手な行動が許せない」という世界基準からみると身勝手な国民なのです。これこそがアンコンシャスバイアスの真骨頂なのです。
日本人は幼い頃からことあるごとに「人に迷惑をかけるな」、「みんなに迷惑をかけるような勝手なことをするな」と、親や教師から「集団へ適合するために自分を殺す」ということを特に学校教育で叩き込まれてきました。その全体主義的教育の賜物が、外国人が絶賛する日本の小学生の「前へならえ」に代表されるような、軍隊のように規律正しい整列やテレビなんかで美談にされる「30人31脚」や、長縄とびなどの「集団行動」です。
このように「みんな」のために、「自分勝手な行動を控える」ということこそが人の生きる道だと教え込まれた人たちが大人になるとどうなるでしょうか。先ず自分勝手が出来なくなります。その最たるものが独創性です。そして冒険です。そして忖度が中心の長い物には巻かれろという行動が基本になります。半面動物の本性が歪められますから、自分の心に闇が出来ます。そしてやがて「自分勝手な行動をする人間が憎くて憎くてたまらなくなる」てくるわけです。それが自分勝手とみた不倫や自分勝手とみた発言に「殺意」までをも抱き、ヘイトやいじめハラスメントが横行し始めることに繋がっていくわけです。
今の日本人の病んだ反応行動は、「個人の自分勝手な行動」への強烈な憎悪が本質にあり、それは日本で最近話題になる「不寛容社会」が根っこにあるのではないでしょうか。いずれにせよ有名人などへの無関係な人たちからのバッシングは常軌を逸しています。「これまで芸能人としてチヤホヤされていたのだから、叩かれるのは当然だ」という人たちの「有名人税」的な理論もありますが、やはり限度はあります。
一番不快なのは社会が負の空気に包まれること、そして邪心のマスコミに正当性を供与してしまうことです。これによってマスコミはますますきちんとした機能をしなくなり、やがて出版界は滅亡していくことになります。歪みを賛美してはいけません。不健康です。無理に大義があるように叩くのはやめるべきです。この大義こそがアンコンシャスバイアスなのです。
さて、皆さんは「ソモサン」