知と意の違いを考えるアゲイン

今回はやや私見を強く交えて、私の考えを主張させて頂く内容となっております。悪しからずご了承頂けますと幸いに存じます。
~世知辛い世の中になったもんだ~
さて、知と意の違いが良く分からないという人がいます。また、意は知の延長線にあるから知を高めれば意は自ずと出来上がる、と云う人もいます。こういう人の多くに見られるのは、人への感情に対する関心の低さです。何故ならば意は知という部品だけではなく、情という部品が合わさった中で有機的に組み立てられる世界なので、意と知の違いが分からないというのは即ち情が薄いということに他ならないからです。
ではどうしてそういう状況になってしまうのでしょうか。一般には何らかの事情で人から目を背けたり、苦手意識を持ったりした結果ということが考えられますが、最近多いのは「甘やかし」などで幼少より対人的苦労を知らず、幾つになっても未成熟な対人意識に拘泥して、自分中心で利己的な思考しか出来ない人の存在です。
こういう人たちは対人的な経験不足によって「人の気持ち」がしっかりと認知され鍛えられていないため、情の持つ作用が分かりません。加えて我が儘な世界だけでものごとをみることしか出来ないから、感受性が鍛えられてもいません。これは詰まる処、意を作る部品が足りないことになりますから、意が作り出せないということに繋がり、結果として意を持てないことに帰結していきます。どうも最近はそういう人が増える一方の様な気がします。
意がないということはアイデンティティ、つまり「自分がない」と云うことです。自分がない中で、何のために人は知を高めようとするのでしょうか。まずそれは生きるにおいて楽しい行為なのでしょうか。知は意のための部品です。つまり、木においては枝葉の存在と云えます。枝葉ですからそれだけでは意味を持ちません。枝葉を生かす幹が必要です。
つまり幹たる意がない中で幾ら知を高め磨いても、何の成果も生み出されないということです。幹のない枝葉は落ち葉と同じで、使い物にならないゴミの様なものです。意味がない知とはその様なものです。知は意に従ってこそ生きるわけです。それにも関わらず知と意を同列にしたり、意を度外視したりして、ひたすら知の強化に邁進する人がいるのが現代の大きな矛盾です。
近年幼少から無機質に知だけを教育されて、人としての自己概念を司る意を持たざる人が増加する中、為政者や一部の権力者にとって都合が良いように枠組みされた意を何の疑問も持たずに受け入れて、しかも競争心を煽られながらまるで調教されるかの如く、自分の意思を殺してでも意味のない知を高めることに執心する度が増してきています。
そしてそれに比例するように、ひたすらレールを走った結果として自分を見失ったり、挫折感を味わったり、閉塞感に陥ったりしながらも、脱却できずに苦しめられる人も増加しています。その挙げ句が、学歴社会による知性一辺倒の思考や短絡的な金儲け主義による人間間の荒廃や不毛化、マスコミ盲信によるネガティブ空気の蔓延、虐めの苛烈化、そしてウツの増大と自殺の多発です。意がある人や、人に関心がある人ほど暮らしにくくなるストレス社会が世の中の世知辛さを加速させています。本当にこれで良いのでしょうか。それで人生は楽しいのでしょうか。
~発達障害のせいにしてはならない~
こういった風潮の原因として、少なからず発達障害という側面に焦点が当たったりもしています。確かにそういった面もあるでしょう。しかし本当に恐ろしいのは、教育弊害による意の喪失や後天的な愛着障害という問題を先天的な発達障害の問題にすり替えるような、それこそ意の欠けた社会の空気感です。それを知が高いと云われている人達が平然と口にしている風潮こそが退廃の証だと思うのです。
今こそ知の高い人たちは自らを振り返って、これからの人間社会や人の在り方を考える時だと思います。意のない人による意のない社会がグローバリゼーションやダイバシティーの中でどういう状況を生み出していくか、真摯に考える必要があります。
理解力が高いからといって、人は話を受け入れるわけではありません。話を受け入れるのは意思です。意思は理屈だけでなく気持ちが含まれるということは説明してきましたが、その気持ちを動かせないかぎり、人の納得は得られません。そして人が行動を喚起させるのも気持ちです。知そのものには情の要素はありません。従って、幾ら論理を駆使しても、気持ちが乗らない限り意思は動きませんし、決することもありません。
例えば対人関係が苦手な人や及び腰な人は知が足りないのでも、理解が弱いのでもなく、情の熱量が上がらず、文字通り気が前向きに乗らない所に原因があるのです。こういう人は自分で自分の気持ちのコントロールがうまく出来ません。経験不足や失敗体験で恐れや逃げのネガティブ・エネルギーに包まれているからです。その為人の情の機微が分からないのです。
ですから頭では理解出来ても実際に感受したり、奮起したりすることが上手く出来ません。距離感が掴めないのです。ですから積極的に身体が動かないのです。これを解決するのに、幾ら座学で知恵を授けても意味を為しません。情を高めるのは五感的な活性しかありません。それを醸成するのは体感的な経験の質と量です。
さてここまで話せば今の人が、何故営業が出来ないのか、また嫌うのか、特に開拓をしたがらないのか、そして多くが自分自身というアイデンティティを持ち得ないのか、そうして直ぐに人に流されるのか、何故打たれ弱いのか、何故我慢が出来ないのか、何故簡単にうつになるのか、答えは容易に導き出せると思います。
それは、世の風潮として情の鍛錬が為されなくなってしまったことに合わせて、意の発達が未熟になっていき、知力に見合った胆力が身に付いていない人が増殖したことに起因しています。そしてそれ以上にその増殖が悪循環を生み出し、経年によって度が強化されて社会の風潮が対人関係の基調をネガティブ基調に仕立て上げてしまい、ますます情や意の未熟な人材を輩出すると同時に知に偏重した社会に傾斜したことが、現代の他者を牽制し合ってバッシングの嵐を生み出す様な無味乾燥で殺伐とした、実に面白味のない社会風潮を現出させている原因となっているのです。
これを打破するには、何よりも単に知だけでなく、情を操れる様になることから知と情をバランス良く取り入れた、意を持った人材を多く生み出すことです。知よりも意の開発にもっと真摯に目を向けてもらいたいものです。
JoyBizではこの度こういった思いを実現すべく、「アンコンシャス・バイアス・トリートメント(無意識のバイアスに気づき整える)」プログラムの開発を完了し、リリースさせて頂く運びとなりました。パンフレットも出来ていますので、関心のあられる方は担当営業にお声がけをして頂けますと幸いに存じます。
さて、皆さんは「ソモサン?」
恩田 勲